第3話

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第3話

『a coffee break?』  以来、それが私と早見先生が喫茶店で会う合図となった。  基本的にそれを口にしたのは、早見先生の方だった。  学校の廊下ですれ違う際だったり、授業終わりの何気ない呼び出しだったりと、タイミングは度々異なる。  時には、提出したノートやテストの裏などに小さく書かれる事もあった。どうやら、彼はこの合図を使う事を気に入っているようだ。  正直、できれば後者の方はやめて欲しかった。  なぜなら、ノートやテストといったものは、うちの家では逐一父親に見せるのが決まりだったからだ。いつ父からこの言葉について問いただされるかと思うと、気が気ではなかった。  そんな私の話に、「随分と厳しいお父さんなんだね」と早見先生は笑った。 「傍から見たら教師から何かコメントされてるぐらいにしか見えないと思うけど……。まぁ、まじめな君のお父さんだ。万が一の事もある。気を付けるようはするよ」 「やめてはくれないんですね」 「いいじゃないか。隠語みたいでさ。君と僕、二人だけに通じる秘密の言葉。クールだと思わないかい」 「生憎、夢見る時代は通り過ぎたので」 「つれないなぁ」  早見先生が不満げに唇を突き出した。  まるで子供のような動作により、外見の若さにさらに拍車かかる。そのさまに、少しだけ笑いがこぼれそうになった。  そんな彼に触発されてか、時々、私も例の合図をノートの隅に書いてみようとした。が、この年でそれをやるには幾分かの恥と矜持が邪魔をしてきて、結局彼から私を誘う事はなかった。  喫茶店で過ごす時間が増えていくに連れ、早見先生と私の間には会話をする瞬間が増えた。  とはいえ、大抵は早見先生が話をし、私が相槌を打つだけ。  彼の方は話す事がいっぱいあるようだったが、私の方には、彼に話せるようなものは何も持ち合わせてはいなかった。  早見先生の話は、ほとんどが海の向こうの国の話だった。  非常勤教師という肩書通り、彼は非常の際にしか学校に出勤しない。ならば勤務外は何をしているのかというと、彼いわく「海外に行っている」との事だった。 「やってる事はさまざまさ。ここに来る前は、日本語スクールの教師をやっていたよ。そこの塾長と知り合いで、その縁からね。僕はね、外国が好きなんだ。特にアメリカ。さまざまな人種が共に暮らし、一つの文化では染められない自由の国。覇権英語以外の言語も当たり前のように飛び交い、けどそれをアメリカという文化として受け入れ、歓迎する。あの自由が当たり前に道を歩く国に、僕は憧れたんだ」  私の知らない世界について語られる度に、私の手は動く事をやめ、その意識を文字だけの世界から目の前の男が語る世界へと向けさせた。  店奥から聞こえて来る焙煎をBGMに、珈琲の香りが自身にまとうのを感じながら、私は見た事もない海外の風景を、早見先生の言葉を通して想像する。 「この秘密の言葉だって、海外じゃナンパの常套句なんだぜ」 「という事は、私は先生にナンパされているのですね」 「やだなぁ、先生はナンパなんてしない。聖人君子な職業だから」 「じゃあ、私は誰にナンパをされているのですか」 「早見一郎。君の目の前にいる男性からさ」  呆れた屁理屈だ。だが、実際のところ、彼の口車に私がわざと乗っているのは事実なのだから何も言い返せない。a coffee break? ――ここにいる私は彼の生徒ではなく、彼と相席をしているだけのただのお客だ。  まったく、変なままごとに付き合う羽目になったものだ。  私はただ勉強をしたいだけなのに。  本当は、こんな話に耳を傾ける余裕なんて私にはない筈なのに――。 「『break』って言葉は他の単語とくっつけると休憩という意味があるけどさ、単語一つだと壊すって意味になる。休む事と壊す事が同じ意味なんだ、向こうではさ。英語って面白いでしょ」 「……そうですね」  面白くない、と言ったら嘘になる。  しかし、それはあくまでも英語が、である。  彼の話が、ではない。彼の話が面白いだなんて、あってはならない。この空間を楽しんでいる自分がいるなんて。そこだけは絶対に認めたくない。  店内に広がる香りと同じ香りの珈琲を飲みながら、私は目の前で微笑む男から目を反らしたのだった。       
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