91人が本棚に入れています
本棚に追加
8
堤の声は特別大きいわけでもないのによく通る。生徒のひそひそ声やシャーペンの芯がノートの上を走る音を突き抜け、教室の後ろの端に座る由宇の耳にもすっと入ってきた。今はそれが少し気まずい。
堤は、数学教師に指名されて宿題の答えを発表していた。少し前の由宇なら、またクラスで一番の優等生が当てられているくらいにしか思わなかったに違いない。
あの後、由宇は堤を浴室に誘った。堤は一刻でも早く、白い精液とその匂いを洗い流してしまいたいのではないかと考えたからだ。堤がシャワーを浴びている間、由宇は狭い浴室で一歩下がって下半身を洗った。陰毛にちょんとボディソープを付け、水分を加えて泡立てる。
堤は帰宅部なのに、いい体つきをしていた。聞けば、長時間勉強していて、頭が働かなくなってきたなと思ったら、手を止めて筋トレをしているらしい。どこまでストイックなんだと由宇は思った。
堤は筋肉のついた肩越しに由宇を振り返って、「向井はがりがりだな」と笑った。改めて言われると情けないが、由宇の体は筋肉とは無縁だ。胸も腹も薄っぺら。真っ平らなところに両乳首の突起とへその窪みがあるだけだ。
昼間の明るい浴室で見る堤は、憑き物が落ちたようなすがすがしい表情をしていた。良かった。由宇にできることで堤の助けになるならと、抜くのを手伝いたいと思った。引き留めたことは間違ってなかったと由宇は改めて思った。
今、いつもと同じ教室、いつもと同じ硬質な堤の声にも関わらず、由宇は昨日までとは全く違う気持ちだった。堤は何も変わらない。変わったのは由宇だ。あの着用例のようにきっちり着こまれた制服の中を、由宇は知ってしまった。自虐的なまでに禁欲的だが、達する時は由宇と同じように喘ぐ。コンドーム越しに手に感じた堤の精液はちゃんと熱かった。もう堤のことを真面目な優等生という器では見ていない。生身の堤を見ていた。
そんなことを足りない頭で悶々と考えていたら、返却される小テストをもらいに行きそびれ、あとで職員室に取りに来いと怒られてしまった。
職員室なんて呼び出されでもしない限りこっちから行くところではない。由宇はずっとそう思っていたが、昼休みの職員室は思いのほか大勢の生徒でにぎわっていた。中間試験まで一週間をきっているからだろう、教科書や問題集片手に、目当ての教師の席を訪れている生徒の姿が目立つ。人気の教師の所には順番待ちの列ができていた。
二年担当の教師の席は、入口を入って手前から二列目だ。由宇は数学教師のひょろりとした姿を見つけると、まっすぐ足を進めた。
途中、年とった現代文教師が席でのんきにマグカップをすすっていた。定年がうわさされる教師を頼ってくる生徒もそういないのだろう。脇を通る時、ほんのりコーヒーの香りがした。大人はいつもコーヒーを飲んでいる。砂糖もミルクも入っていないコーヒーの美味しさは由宇には分からなかった。
数学教師は由宇の姿を見とめると、眉間に皺を寄せ厳めしい顔をした。
「なんで呼び出されたか分かっているのか?」
「……小テストを取りに行かなかったから」
「なんで取りに来なかったんだ」
由宇は答えに詰まった。まさか堤の声に悶々としていて、名前を呼ばれたことに気づかず、取りに行きそびれたなんて言えない。今も気を抜くと、昨日の堤の姿が脳裏に蘇りそうだった。由宇はとっさにうつむいた。汚れた上履きの先が目に入った。
「後ろめたかったからじゃないのか?」
「……?」
「この小テスト、ひとの解答を書き写したんだろう」
由宇は弾かれたように顔を上げた。
「誰の答案を見たんだ。隣の柴田か」
「ちが、カンニングなんてしてない!」
由宇は叫んで首を振った。
「嘘をつくな。お前がこんな点、取れるわけないだろ」
数学教師がこんなと差し出した小テストは、ざっと見る限り十問中二、三問しかバツがなかった。
それまでは、ややにぎやかだった職員室の空気が変わった。嫌な静けさの中、「カンニング?」「カンニングだって」とささやく声が伝染していった。
小テストは中間試験まで毎時間授業の初めに行われ、出題内容はそのまま中間試験の範囲になっている。今回はたまたま堤と勉強した問題が出ていたからよく覚えていた。見たことがある問題で、すぐに解き方が思い浮かぶのがうれしかった。
由宇は、「カンニングじゃない、自力で解いたんだ」と訴えたかったが、とっさに言葉が出なかった。周囲の教師たち、そして生徒たちから一斉に注がれる視線が無言で由宇を責めているように思えた。
これまでの成績からすれば、由宇が例え小テストであってもこんな点を取るなんて想像できないだろう。今まで寝てばかりいた由宇が悪い。自業自得と言われても仕方がない。けれど、これはまぎれもなく由宇の実力だ。堤が付けてくれた由宇の力なのだ。そう主張したいのに、喉の粘膜どうしががぴたりとくっついてしまったかのように声にならなかった。由宇はただ唇を噛み、目の前の教師を睨みつけた。
「なんだその目は。ここで言えないなら、親を呼んで親の前で言うか」
由宇の視界は真っ赤に染まり、鼻の奥がつきんと痛んだ。どうしてこんな風に言われないといけないのだろう。由宇がどんな悪いことをしたというのだろうか。由宇はただ覚えたことを小テストに書いただけだ。まさかこんな疑いをかけられるなんて思いもしなかった。噛みしめすぎた唇が痛かった。目頭が熱い。泣きたくないのに、視界がゆるゆると揺らいでいく。泣いている場合ではない。今反論しないと、カンニングだと決めつけられてしまう。
「下島先生」
その時、穏やかな声がかかった。
はっと由宇が声のした方角を向くと、現代文教師が立っていた。
「お話し中すみません、もう、その辺でいいんじゃないでしょうか」
「宮田先生……」
「少し聞こえたんですが、向井はカンニングしていないと言っている。そして、下島先生も向井がカンニングしたところを見られたわけでもなさそうだ。これ以上はやったやらないの水掛け論でしょう」
「しかし」
「向井は私の時間もよく寝ていて、漢字やワークの宿題もしたりしなかったりです。でも、漢字テストでカンニングをするようなずるいことはしない。いつも空欄だらけの答案を堂々と出すんですよ」
現代文教師が、由宇のことをそんな風に見ていたなんて、由宇は思いもしなかった。
数学教師は、なおも何か言いたげに口を開きかけた。しかしそれは、音になる前に、強い声にかき消された。
「向井はカンニングしていません」
由宇たちを遠巻きにして眺めていた人垣から、生徒が一人歩み出た。
すらりとした長身に、一番上までボタンの止まった制服。蛍光灯の元でも艶やかな黒い髪。
堤だった。
「つつみ……」
やっと喉に詰まっていた言葉が出たかと思ったら、弾みで涙までこぼれた。ぱちぱちと瞬きをするたび、涙がまつげに弾かれてぽろぽろとこぼれ落ちていく。由宇は慌てて手の甲でぬぐった。
「今回の小テストはちょうど僕が教えた所でした」
こんな時でも堤の声はよく通った。今や、由宇に注がれていた視線のほとんどは堤に向かっていた。それを痛いほど感じているだろうに、堤は堂々としたものだった。ひと欠片も感情ののっていない無表情と、低く落ち着いた声。むしろ、堤の登場に、数学教師のほうが動揺しているように由宇には見えた。
「お前が……?」
数学教師は由宇と堤を交互に見比べた。言いたいことは分かる。誰もが認める優等生と、たった一回の小テストの出来が良かった程度でカンニングを疑われる生徒が一緒に勉強しているなんてにわかには信じられないのだろう。現代文教師だけは、にこにこして言った。
「それは結構。ひとに教えることで、より理解が深まるというものです。堤にとっても良いことだ。ぜひ続けていくと良いでしょう。下村先生、今回の結果が本当に実力かどうかは次の小テストで測れます。向井、次もがんばれよ。漢字テストもな」
数学教師は明らかに納得いかない顔をしていたが、年かさの現代文教師に表立って逆らえないようだった。
堤は「はい」と答えると、数学教師に歩み寄り、その手から由宇の小テストをとった。そして、由宇を振り返って、「いこう」と促した。
由宇は、堤に背中を押されるまま、出口に向かった。途中、「違ったって」「カンニングじゃなかったんだって」と悪意のない無責任でささやく声がした。
二人はしばらく無言で歩いた。
職員室から一歩また一歩と遠ざかるにつれ、由宇は足の力が徐々に抜けていくのが分かった。もう堤に腕をつかまれていないと、その場に立っていることも難しい。堤は、そんな由宇を見て、教室に帰るのではなく、すぐ先の美術室へ誘った。
昼休みの美術室には誰もいなかった。由宇は手近の作業台に行儀悪く腰かけた。木製の作業台はずしりと重く、由宇が寄りかかった程度ではびくともしない。
「堤がいてくれて助かった」
「俺がいなくても宮田先生がなんとかしてくれたさ」
「ううん、堤が教えたって言ってくれて、下村も信じたみたいだった。やっぱ、堤って、すごいんだな」
堤に寄せられる厚い信頼を改めて目の当たりにした。
「カンニング、してないんだろ」
確認するように、堤が由宇の目を見て言った。
「してない! 堤とやったの覚えてたんだ」
「じゃあなんでもっとそう言わなかったんだ?」
「それは、」
「違うな、ここで向井を責めるのは間違いだ。俺は一番言っちゃいけないことを言ったな。ごめん。疑われて、つらかったな」
「堤が謝ることない。悪いのはあいつだ。クソ、思い出すと腹立ってきた。なんで言い返せなかったんだろう、今ならいくらでも言ってやりたいことが浮かぶのに」
自分はカンニングなんてしてないと、ただそれだけ主張すればよかった。やっていないのだから当然だが、数学教師にカンニングの証拠はなく、由宇に後ろめたいところも一切ない。
「そういうもんだ。警察の取調べで、やってもない罪を自白する人がいるって、聞いたことくらいあるだろ」
ある。ドキュメンタリー番組で見た。警察署の取調室という日常生活から離れた異質な空間で、警察官に囲まれて孤独な立場になった人は、厳しい追及につい頷いてしまうというのだ。その後は、いくら裁判であれは嘘でしたと主張しても、なかなか認められないという。あのまま自分がカンニングしたと決めつけられていた未来を想像し、背筋が凍った。自分で自分の体をぎゅっと抱きしめる。違うと大声で叫びたいのに、声にならない恐怖が蘇った。堤が由宇の無実を証明してくれなかったら、親を呼ばれていたかもしれない。
「本当にありがとう。堤は、先生に逆らったりしないと思ってた」
「俺のことなんだと思ってるんだ」
堤が少しムっとしたように言った。
「堤、弁護士向いてる」
「なんだ急に」
「堤にかばわれて俺うれしかった。安心感がはんぱなかった。絶対なってよ」
「そうだな……。今までは、両親とも弁護士で、自分に一番身近な職業だと思っていた。やりがいや社会貢献について、親の話からも分かってるもりだったが、今日初めて実感したかもしれないな。無実の罪で責められている向井を見て、どうしようもなく腹が立った」
由宇は顔が熱くなった。堤はとても真面目な顔をしていた。
「堤はなんで、職員室にいたの?」
「ああ、進路指導室に行ってた。向井はまだいるかなと思って、隣の職員室をのぞいたんだ。のぞいて良かった」
「進路指導室?」
「外大のことを調べに行った」
「外大? 外大って外国語大学? でも、堤の志望校は、」
「俺じゃない。向井にどうかなと思ったんだ」
由宇は目を見張った。
「英語が好きなんだろ。そういう道もあるって言いたかったんだ」
堤が目を細めて笑みを深くした。
その笑顔がとても優しくて、由宇は目が離せなかった。
最初のコメントを投稿しよう!