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「焦ってる?」
長机に浅く腰掛けた小田桐先輩の太ももの裏側に手をはわせながら、下からすくいあげるようにキスしようとしたら、笑われた。
「焦ってる? 俺」
「うん、いつもより」
ゆったりと微笑む小田桐先輩はいつも通りきれいだった。
放課後の視聴覚室。英語部に所属する三年の小田桐先輩に声をかけたら、普段は英語部の活動場所となっているが、今日は部活が休みだからと連れて来られた。校舎に響き渡る吹奏楽部の練習音もドアを閉めたとたんぴたりと止む。静かすぎて耳が痛いほどの、完璧な防音。なるほど、これほど適した場所もない。
由宇は少し考えて、「先輩がきれいだから」と素直に答えた。
「わ、最低」
「なんで最低?」
「ほんとに思ってる?」
由宇は、短いスカートから伸びる白い太ももを見ながら、「思ってる」と答えた。
「どこ見て言ってんの」
小田桐先輩が笑う。
耳の側で小田桐先輩に笑われるのが由宇は好きだ。少し低い声が鼓膜に響いて心地いい。洋楽でも歌ったらとてもさまになるのに、頼むそばから断られる。「由宇の方が発音良いのに恥ずかしい」と言うが、小田桐先輩の声で聞きたいのに。
由宇は大きく開いた手で太ももをもんだ。小田桐先輩の太ももは滑らかな上、もっちりとした弾力がある。太もも同士の間に顔をうずめにいったら、小田桐先輩に「こら」と頭を押しやられた。人間というのは不思議なもので、拒絶されたらよりやりたくなる。完全にスイッチが入った。由宇が本気で太ももに鼻先を寄せにいったら、小田桐先輩はもう抵抗しなかった。かわりにくすぐったいのを我慢するような吐息が頭上でもれる。由宇の股間はすぐに熱くなった。性器に血液がみなぎり、柔らかく温かい場所に押し入れたいという衝動が満ち満ちてくる。
由宇が上体を起こすと、小田桐先輩はコンドームの小袋を指先に挟んで揺らせていた。
驚いた。いつの間に用意したのだろう。
由宇は受け取り、ズボンのポケットにいったんつっこむ。バックルを外してベルトの先を引き抜き、ファスナーを下したところで、不意に出入口のドアが音を立てた。
小田桐先輩とふたり、弾かれたように顔を上げる。ぴたりと身を寄せ合い、音のした方角を見やると、曇りガラス越しに黒い人影が見えた。
人影はなおもドアを引いて開けようとしたが、ひっかかって開かない。念のため鍵をしておいて正解だった。
だが、次の瞬間、鍵穴に鍵が差し込まれる気配がして、由宇は息を飲む。
小田桐先輩はとっさにその場にしゃがみこんだ。
間一髪、ドアを開けた人物に小田桐先輩の姿は見えなかったと思う。
ドアの向こうに立っていたのは、同じクラスの堤だった。
「堤?」
「向井か……? こんな所で」
「何をしている?」とでも問おうとしたのだろう。が、堤の言葉は途中で途切れた。片足を視聴覚室に踏み入れ、もう片足は廊下に残したまま固まっている。遠目にも、ベルトは外れ、ファスナーは全開の由宇を見て、察する所があったのだろう。堤は眉根を寄せた。
「何してる」
「何って……この格好見たらだいたいわからない? 大画面でエロいのでも見よっかな~って。わかったら、見なかったフリしてどっか行ってくれたらうれしいんだけど」
「行くか。どうして用があって来たほうが遠慮して立ち去らなきゃいけないんだ」
「うわぁ、正論、真面目」
「真面目じゃない」
どこがだ。学ランを一番上のボタンまで留め上げきっちり着ている姿は真面目の象徴だ。一歩も引かない姿勢には、見つけた悪事は許さない、そんな強固な正義感がにじみ出ているようだった。とても適当にごまかして追い払える雰囲気ではない。由宇は両肩と両眉を垂らして、「用って?」と尋ねた。
堤は無言で右手を挙げた。持っているのはブルーレイディスクのようだ。
「世界史の滝本から借りた。観終わったら、ここに戻すように言われた」
由宇がため息とともにちらりと視線を落とすと、机のかげにしゃがみこんだ小田桐先輩と目が合った。由宇は堤から見えないように机の下で小さく手を二回振り、出ていくよう伝える。小田桐先輩はこちらの意図を察したらしく真顔で一つうなづくと、身をひるがえし、絨毯の上を四つ這いで堤が入って来たのとは反対の視聴覚室後方の出入口に向かって猫のように進んでいった。白い太もものちょうど真ん中辺りでスカートのすそが揺れている。小田桐先輩が無事出ていくまで、堤の意識を由宇に向けておかなければならない。
「なんの映画?」
「え?」と、堤は面食らった。まさかそんなこと聞かれるとは思っていなかったのだろう。由宇だって聞きたくて聞いているわけではない。
「映画じゃないの? AV?」
「お前な」とすぐに忌々しそうな顔をする堤に、由宇はつい絡んでしまう。
「なんで? 男子高生がAVって普通じゃない? むしろ全く興味ないってほうがちょっとどうかと思うけど」
「向井にはな」
「え、てことは堤、興味ないの? じゃ、どうやって抜くの、映像ないと抜けなくない?」
堤は「向井」と右手を額にあてた。
「溜まった精子はどうするの」
「心配しなくても、生物科学的には、放出されない精子は、分解されて体内に吸収されるんだ。常に作られ続けるから、定期的に排出しないといけないという俗説は誤りだ」
「うそだぁ!」
由宇には軽い衝撃だった。
真面目な優等生は、脳みそだけでなくちんこの作りまでも違うのか?
堤はこれ以上会話するだけ無駄だと思ったのか、無言でDVDやブルーレイディスクが並べてある棚に向かった。
由宇も、全開のファスナーだけ引き上げて後に続く。勃起しかかっていた性器はとっくに萎えていた。出さなければ本当に体の中に吸収されるのだろうか。由宇はそんなまさかと首を振った。さりげなく視聴覚室後方の出入口に視線をやると、うっすらドアが開くのが見えた。小田桐先輩はうまく逃げおおせそうだ。
由宇は堤の広い背中に追いつき、タイトルを確かめてブルーレイディスクを戻そうとする堤の手元をのぞきこむ。
「『シンドラーのリスト』? うわ、暗、戦争のやつでしょ?」
「見たことあるのか?」
意外そうな声色とともに、堤が首を回して振り向く。
「あるよ、有名じゃん。『デッド・ポエッツ・ソサエティ』もみたよ」
由宇は若干ムっとして、優等生が好きそうな洋画を原題で呼んでみた。由宇を見降ろす堤の目がますます大きくなる。
「今、俺みたいにバカっぽいのがって思っただろ?」
由宇は嫌味と冗談を八対二くらいにまぶして言ってやった。
「そんなこと言ってない。ただ、珍しいなと思ったんだ」
「珍しい?」
「どっちも古い作品だ。洋画好きなのか?」
「ていうより、英語をしゃべってるのを聞くのが好き。洋画も洋楽も」
由宇は英語の音の連なりを延々と聞くのが好きだった。きっかけは単純で、たまたま週末の夜に親と観た洋画にはまったにすぎない。そのことを当時の中学のネイティブの教師に話したら、映画や海外ドラマを山ほど紹介してくれた。確か、リベリアのモンロビア出身の英語教師だった。由宇に勉強という意識はなく、新しいものから古いものまで次から次へと洋画を観ていたら、いつの間にか、ただの音にしか過ぎなかったものが、次第に単語を形成し、やがて意味をもった。中二の夏休みは、寝ている時と食べている時以外は、夢中で洋画を観あさった。今も家にいる時は、観る観ないに関わらず、洋画を流しっぱなしにしている。
「それでか。てっきり帰国子女かと思っていた」
「帰国子女? 俺が? 冗談だろ。俺がそんな家の子に見える?」
「でもそれくらい、教科書を読む向井の英語はきれいだ。海外にいたんだろうと思っていた」
今度は由宇が目を丸める番だった。頭が良くて優等生の堤が、まさか授業中寝ていて教師に注意されるばかりしている由宇の発言に気を留めているなんて思いもよらなかった。
この時初めて由宇は、堤という人を真正面から見た気がした。由宇よりひと回り大きながっしりした体躯。黒々とした短髪に、秀でた額。はっきりとした眉の下に、すっきりとした一重の目。先ほどからきつい視線を送られてばかりだったが、今は幾分穏やかなまなざしをしている。
初めて向かいあう堤という人は、同じ学ランを着ているのが不思議なほど、大人びた生徒だった。
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