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3
単調に話す数学教師の声に終業のチャイムが重なる。由宇は、両腕を思いっきり突き上げ大きく伸びをした。背骨がボキボキボキと鳴る。それを見とがめた数学教師は一瞬口を開きかけたが、すぐに言っても無駄かという顔をし、全体に向かって次回までの宿題について説明を始めた。
だるい。それはただ五十分間座りっぱなしで体がこわばっているだけではない。昨日小田桐先輩とやり損ねたことが尾を引いていた。
家に帰って自分で抜きはした。それはそれで、気分に合わせて好きなシチュエーションを選び、誰に気を遣うことなく自分のタイミングで射精できて手軽ではある。けれど、いったん人とやりたいと思ったからには、やはり温もりが欲しかった。
クソっというつぶやきを、由宇の一つ前の席に座る木下寿々葉は聞き逃さなかった。
「機嫌わるいね」
木下は椅子に横向きに座り、由宇を振り返った。長い黒髪が肩をすべり落ちる。
「昨日やり損ねた」
「この前言ってたいっこ下の子?」
「ちがう、先輩」
「また違う子。ほんとに節操ないよね」
何がいいのか由宇自身にもいまいち不明だが、一緒に遊ぼうと言い寄ってくる子は後を絶たない。木下にはいつも「いい加減、一人に決めなよ」と詰められるが、みんなそれぞれ良くてとても絞りきれない。きれいな足の先輩、笑った顔がふわふわの後輩、陸上部の同級生、みんな違って、みんなかわいい。
「そうやって、あっちもいい、こっちもいいってやってるうちは、誰のことも好きじゃないんだよ、ほんとは」
「何それ」
そんなことはない。みんなかわいすぎて選べないだけだ。
「あ、木下、堤知ってる?」
「堤? 堤って、あの堤?」
木下がちらりと視線をやった先に、堤がいた。
堤は、日直なのだろう、みっしりと数式が書きこまれた黒板を掃除していた。中央部分は長い手を大きなフォームで動かし消していき、端は小刻みに前後させて消す。この後はもうホームルームを残すだけなのに、四隅まで丁寧に消すところに真面目な性格が出ているようだった。
「そう」
「なに急に」
「彼女いる? 堤って女子から見てどうなの?」
「どうって、」
「下の名前なんだっけ」
「堤の? 正隆だけど」
由宇は携帯電話を取り出し、SNSでかたっぱしから堤の名前を検索してみた。が、どれも一致する検索結果はなしとでる。
「SNSは、やってないか」
「そういうタイプじゃないよ」
「仲良いの?」
木下は、明らかにきまり悪そうな顔をしていた。由宇がじっと待っていると、目を伏せて小さくため息をついた。
「なんで堤に興味もったか知らないけど。どうせ向井のことだから、そうやって聞きまわるんでしょ。他の誰かから変な風に言われるのやだから先に言うね」
一呼吸おいて、木下は「私、堤にふられてる」と言った。
「うそだ!」
「ほんと。一年の時」
意外だ。木下は男子にモテる。こうして廊下側の席に座っているだけで、移動教室の生徒がちらちら見て通るのを由宇は知っている。すべてのパーツが大きなはっきりした顔、足は細いのにでかい胸。由宇には、そのストレートな物言いが四つ上の姉を思い起こさせ、全く女として見れないが。
でも木下のすごいところは、同じくらい後輩の女子にもモテるところだ。十分の短い休み時間にわざわざ二年の階まで連れ立って木下を見に来る子もいれば、木下が席を空けてる間にチョコなどのちょっとしたお菓子を机に入れていく子までいる。一見大人しめのかわいい子が多くて、後ろから見ていて由宇はつい木下より俺にちょうだいよと言いたくなる。
その木下が、堤にいくのか。
「もし知ってたら教えてほしいんだけど」
「なに」
「堤って、童貞?」
由宇は、気になっていたことを木下にぶつけてみた。あの堤の反応を見るに、なんとなくそんな気がした。真面目な優等生が童貞なんてよくある話だ。
木下は嫌悪感を露にすると、「最低」と冷たく切り捨てた。
「なぁなぁ」とさらに言い募る由宇に、木下はくるりと背を向けた。
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