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 一日の終わりのホームルームを締めくくる担任の声に、生徒たちは待ちかねたように立ち上がった。  椅子が床をこする音、生徒の話し声、笑い声で教室が一気に活気づく。由宇はこの瞬間が好きだ。明るい喧騒が学校からの開放感をより盛り立てる。部活にいく生徒、誘い合って遊びに行く生徒と、ばらばらと教室から人が減っていく。  由宇は放課後によくつるんでいる赤木、沢渡に今日は抜けると伝え、その足で堤の席に向かった。堤は机の上に鞄を乗せ、帰り支度をしていた。 「堤」  教室で由宇が堤に話しかけるのは初めてだ。  堤は目をしばたいた。 「帰るの?」 「図書室に行く」 「ついて行っていい?」  「は?」と、今度こそ堤は声を上げて驚く。 「勉強に行くだけだぞ」 「なんの?」 「中間」  中間、中間、もうそんな時期だっけ?  試験発表もまだのはずだが、堤が言うのだからそうなんだろう。 「行く」  少し高い位置にある堤の顔を真っすぐ見上げて由宇が言い切ると、堤は断らなかった。  由宇が放課後の図書室に足を踏み入れたのは、記憶にある限り初めてだ。もっぱら短い昼休みに、人目を盗んでいちゃつくために利用したことしかない。人気のない図書室に慣れていた由宇は、放課後のにぎわいに驚いた。  本を探して壁に並んでいる本棚の前に立っている生徒、数人で一つのテーブルを囲み勉強している生徒。堤の言うとおり中間試験を控えているからか、テーブルに教科書やノートを広げている生徒も多かった。  きょろきょろする由宇を尻目に、堤は一直線に空いているテーブルへ向かった。由宇もすぐさま後に続いた。  六人掛けの大きなテーブルに堤と向かい合って二人座る。初めて座る図書室の椅子は、クッション部分が尻にチクチクした。  堤は数学の青チャートをするつもりらしい。由宇は問題集など重いものは教室の机かロッカーに置きっぱなしにしているので、持ち合わせていない。適当に鞄から数学の教科書とノートを引っぱり出した。  堤の真剣な目が問題集をなぞる。そのスピードはとても速く、読むと同時に内容を理解しているとしたら、由宇にはとても考えられないレベルだった。  由宇はとりあえず今日の授業で習ったページを開いてみたが、珍しくとったノートと突き合わせて見てもさっぱり思い出せなかった。自分で書き写した数式の意味が分からない。由宇は数ある教科の中でも、特に数学が苦手だ。数学なのだから数字ばかり出てくればいいものを、途中で突然アルファベットが出現する。その瞬間、由宇にはついていけなくなるのだ。  すぐに飽きて、由宇はシャーペンを放り出した。  右隣の席を見ると、女子たちがみんなで一緒に同じ問題に挑んでいるのか、テーブルの中央に頭突き合わせてひそひそと話していた。由宇がしばらく眺めていると、その内の一人が由宇の視線に気付き、目が合った。輪になっている子のうち、ちょうど由宇から一番遠い位置に座っている子だ。一年生だろうか、セーラーの襟に走るラインは真っ白で、どことなく表情が幼い。由宇がにこっと笑いかけると、その子は頬を染めてうつむいた。  由宇は再び目の前のノートに視線を戻す。そうして、ゆっくりと、下半分が白いノートからペンケース、ふたりの間の白い机、最後に正面に座る堤に視線を上げた。問題に集中している堤は、由宇の視線に気付かない。  どうして今日自分は堤にくっついてここに来たのだろう、と由宇は小首をかしげる。きっかけは完全なる好奇心だった。堤という人がどういう人なのか興味があっただけ。木下が好きになった相手というのも、由宇の行動に少なからず影響していた。もしかしたら堤には、由宇の知らない人を惹きつける一面があるのかもしれない、あるなら探りたいと思ったのだ。今のところ、特にこれといって見当たらないが。 「分からない所があるのか?」  不意に、堤が問題集から顔を上げ由宇を見据えた。 「さっきから手がとまってる」  由宇は驚いた。問題集に集中して、由宇のことなど視野にも入ってないと思っていたのに、そうでもなかったようだ。 「聞いていい?」 「なんだ」 「堤はほんとにオナニーしないの?」  堤は「お前な」と、呆れといらだちが混ざり合った声を上げた。  そんなに大きな声を出したつもりはなかったが、由宇の声は隣の席にも届いたようで、女の子たちのひそひそ声が一瞬止んだ。由宇が視線をやると、皆一様に顔を伏せた。堤に向き直る。堤は、苦いものを噛みしめたような顔をしていた。 「それが今聞くことか、勉強しろ」  由宇は肩をすくめた。 「堤は、それ、中間の勉強してるの? 早くない?」 「そうでもない。今から始めれば、試験までに三回通り終わらせられる」 「三回通りって、同じ問題を⁈」 「ああ」 「いつもそんな計画的に勉強してんの? すごいね。オナニーも曜日決めてやってそう」 「向井」  面白いほど堤は、打てば響くように下ネタに嫌な反応をする。童貞なのが恥ずかしいのだろうか。高二ではまだ比率は半々くらいな気もするけれど。それとも、初体験で失敗したほうか。 「ほんとに抜かないの? 三日も抜かないと、こう、イライラするっていうか、落ち着かなくならない?」 「教えない」 「いいじゃん、してるかどうかくらい。何なら教えてくれるの?」 「数学」 「数学?」  堤は、広げただけの由宇のノートをトントンとシャーペンの先で叩いた。  由宇はため息をついた。 「aとbが出てきたら、分からない。数学なのに、なんでアルファベット?」 「ああ、分かるよ」 「うそだ、堤は分からないなんてことないだろ」 「そこでつまるのが分かるって意味だ」  そういうと、堤は、「aとbを、それぞれ2と3でやってみて」と指示した。 「2と3?」 「そう、そこにあてはめて」 「5?」 「今どうやった?」  どうやったって、2と3を足したら5だろ。さすがにそれくらい由宇にも分かるとムっとした。 「じゃあ、同じようにaとbでやってみて」 「aとbで?」 「そう、aとbでずっとやり続ける。2と3のように、すぐに解決されないだろ? だからずっとaとbと書き続ける」 「最後まで? カッコに入れたまま?」 「そう最後まで、カッコに入れたまま」 「それでいいの?」 「(一)はとりあえずな」  由宇は言われたとおり、ノートの続きの白い部分に書き始めた。  途中由宇の手が止まると、しばらく間があいたあと、堤が助言をくれる。それを二、三回繰り返すと最後まで解けた。授業中、板書をノートに書き写した数式とほぼ同じものができていた。 「できた」  堤は「良かったな」と言った。由宇を小馬鹿にした響きは全くない。 「堤、教え方上手だね」 「どうも」 「数学の下島より堤のほうが分かりやすい」 「それは向井が下島の授業を聞いてないだけだろ」 「ついでにオナニーしてるかも教えてくれる?」  堤は間髪入れずに「ばかやろう」と言うと、「次」と(二)を指さした。
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