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 五月ってこんなに暑かったっけ? と思うきつい日差しも、曇りガラス一枚を通り抜けると威力は弱まる。柔らかい光をうけて、窓際に座った堤の黒髪には、光の環ができていた。  小田桐先輩に放課後は図書室で勉強するからと断りの返信をうち、由宇は再び堤と向かい合わせに座っていた。何となく今日も堤は図書室で勉強する気がした。由宇の予想は的中した。聞けば、堤はほぼ毎日通っているらしい。小田桐先輩と過ごす楽しくて気持ちのいい時間と、堤という人を手探りで知っていく時間。単純に、その瞬間の由宇の好奇心が後者に傾いたに過ぎない。 「解けたか?」  絶妙なタイミングで問われる。神様か? と由宇は思った。  堤は由宇の差し出すノートに滑らかに視線をはわせると、「合ってる」と短く言った。そして、自身が読んでいた青チャートを取り上げると、パラパラとページを戻し、反対に向けて由宇の前に置いた。 「次はこれ」  「え、でも」と由宇は当惑する。 「こんなの、難しくて解けない」 「今解いたのと基本は変わらない」 「でも俺がこれ借りたら、堤何すんの?」  堤はテーブルの脇に置いた鞄から、別の問題集を取り出した。この優等生は、一体何冊問題集を持ち歩いているのか。由宇は半ば呆れた。 「堤、数学好きなの?」  問題集のページをめくりながら、堤がなぜ? と由宇を一瞥する。 「それも数学だから」  「それ」と由宇は新しい問題集を指し、「文系なのに、なんで数学?」と尋ねた。 「文系だからだ」  堤は問題集に視線を戻して答えた。 「国語、英語はみんな得意だろ。受験で差が出るのは数学だ」 「受験って、もしかして堤はもう志望校決めてるの?」 「ああ」  「どこ?」と由宇が問うと、堤は問題集から視線を上げないまま教えてくれた。そういう名前の大学があることはもちろん知っているが、目指す人なんて聞いたことがない。由宇の口から「すごい」と素直な感想がもれた。 「何もすごくない。足切りにさえ遭わなければ、誰でも受けられる」  堤はシャーペンをカチカチと鳴らした。 「推薦とか?」 「いや、一般」 「なんで?」 「自分にアピールできるような所があると思えないから。あるかどうかも分からないアピールポイントを必死に探すより、勉強するほうが性に合ってるんだ」 「法学部なのは? 親が弁護士とか?」 「ああ」 「どっち?」 「どっちも。でも母さんは去年早期退職して、今は油絵教室に通ってる」 「油絵?」 「ずっとやりたかったらしい」  すごい。よく分からないけれど、堤の家がなんかすごいということは由宇にも分かった。同じ高二と思えないほど言動が落ち着いてみえるのは、そんな家庭で育ったからかもしれない。  推薦ねらいではなかった。堤は、早々に決めている志望校に向けて、わき目もふらず勉強しているだけだった。由宇の目の前にある堤の青チャートは、授業で習っている所よりずっとずっと先までページを開いた跡があった。同じ問題を何度も何度も繰り返し解いて、なんて地道な勉強方法だろう。それらは由宇が、将来の役に立つか分からないのにやってられないと投げ出していた問題だ。きっと堤にとっては、授業で、宿題だった問題に答えるなんて、わけないことなのだ。  推薦ねらいだなんてせこいやつと一瞬でも思った自分の幼稚さが恥ずかしかった。由宇は内心で堤にごめんと詫びた。  黙りこくった由宇をどう思ったのか、堤は顔を上げて、「使わないなら返せ」と青チャートに手を伸ばしてた。  由宇は慌てて、青チャートに向かった。つい先ほど解いた教科書の練習問題と、似たような問いの書き出しだった。どうだったっけ? とノートのすぐ上を見ながら考える。(一)はほぼ同じ要領で解けた。 「できた」 「そうか」 「これ、当てられたらまた答えていい?」 「どういう意味だ?」 「だって数学の時、堤ちょっと怒ってなかった? 俺が、堤と一緒に解いた答え写したからじゃないの?」  堤はシャーペンを滑らす手を止めて、「あぁ」と渋い顔で笑った。 「なんでそんなことで怒るんだ。違う。下島の態度がないなと思ったんだ。数学の下島が、向井のノートを確かめただろう? あんなことされたらやる気をなくす。教師のとる態度じゃない」  思いもよらない言葉に、由宇は面食らう。 「まーでも、俺、今まで真面目に授業受けてなかったし……バカだし…………」  堤の由宇の側に立つ言葉が気恥ずかしく、由宇はつい自分を卑下するようなことを口走ってしまう。 「向井は人のノートを借りて答えを写したりしない。分からないときは、黙ってつっ立ってただろ。それに馬鹿とも思わない。説明したことは今のところ理解しているし、新しい問題に応用もできている。誰にも教えられず問題が解ける人間はいない。最初は教えられて学んでいくんだ」  由宇はとっさに言葉が出なかった。  ノートから顔も上げない堤を見ているうちに、何とも言い難いくすぐったさが胸に満ちるのを実感した。うれしさと恥ずかしさが、左右から同時に一つのカップにとぷとぷと注がれていくような感じ。  由宇はごつんと額をテーブルにぶつけた。もういくら強く奥歯を噛みしめても、口元からあふれる笑みが抑えきれない。なんだろう。胸がぞわぞわして、顔が熱い。すごくうれしい。 「堤」 「なんだ」 「(二)教えて」  由宇はそれだけ言うのが精一杯だった。
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