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6
由宇はその週末をいつになくそわそわとした気持ちで過ごした。
土曜日の午前中は、自分の部屋で独り映画を見た。もう数えきれないほど見た映画は、三つ先のセリフまで諳んじることができる。ぼーっと見るともなしに見ていると、堤は今ごろ何してるんだろうと考えていた。土日は図書室は閉まっているはずなので、家で勉強しているのだろうか。大きな家の広い自室で、高校生にしては立派な木製の机に向かう堤のうしろ姿が、由宇の脳裏に浮かんだ。なんとなく独りでいたくない気持ちが募り、由宇は赤木、沢渡に声をかけ、ファミレスで昼ご飯を食べた後カラオケに繰り出した。
ランキングで上位の曲を順番に歌い、歌えなかったやつが罰ゲームという遊びをした。マイクを握っている間はいいが、赤木の下手な歌に合いの手を入れる頃には、由宇は白けた気持ちになっていた。
山盛りのフライドポテトの端にケチャップを出しながら、沢渡が「どうした?」と尋ねてきた。
「お前が誘ったくせに、ぼーっとしてんな。無理してないか」
無理はしていない。由宇はひとつうなづいた。
「最近放課後どうしてたんだ? 断りっぱなしだったろ」
別に隠すことでもない。由宇は「堤と勉強していた」と答えた。
「堤って、うちの堤? 学級委員長の?」
「そう」
「それは予想してなかったわ。いつの間に堤と仲良くなったんだ?」
いつの間にだろうか。そもそも、由宇と堤は仲が良いといえるのだろうか。由宇の方が一方的にくっついていっているに近い。静かな場所にいても人気のある場所にいても同じだった。由宇は堤との時間が恋しくなっていた。くせになりかけているのかもしれない。学校の自販機で、いつも買っているコーヒー牛乳が売り切れている時ほど、口の中に甘い味が広がって無性に飲みたくなるあの感じ。
正直、今でも勉強はたいして好きではない。数学も嫌いなままだ。けれど、堤と放課後の図書室で勉強する時間は嫌いではなかった。ページをめくる音とシャーペンの筆記音だけに包まれる時間。手が止まると、しばらくして堤が声をかけてくれる。静かで、穏やかな時間。しかし、どんなに恋しくとも、少なくとも土日のあと二日、あの時間はおあずけだ。
「ま、それならいいけど。女ともめてんのかと思った。何か困ったことがあったら言えよ」
沢渡は本当にいいやつだ。この絶妙な距離の取り方が、由宇と長続きするゆえんだ。由宇は「サンキュー」と言うと、ソファに置かれたタンバリンを取り上げ、赤木の調子外れな歌声に合わせて打ち鳴らした。
待ちに待った週明けの放課後。教室を去る生徒は皆一様に浮かない顔をしていた。金曜日の試験発表をうけ、中間試験最終日までの二週間、放課後の部活動は原則休みになる。普段は部活動へ繰り出す生徒も、勉強に勤しむよりほかない。
沈んだ雰囲気のクラスで、堤の席に向かう由宇の足は独り弾んでいた。
「つ、つ、み~。図書室行く?」
「悪い、今日は」
当然一緒に勉強できると思っていた由宇は思わず不満の声をもらす。
「なんで? 勉強しないの? まさか家でするの?」
「違う。用事を済ませていくから、先に行っといてくれって言おうとしたんだ」
「なに、用事って。職員室?」
学級委員長の堤は何かと職員室に呼ばれて行くことが多い。
「すぐ終わる? 先行っといたら、後から来る?」
「行くよ」
「あとでな」と教室を去っていく堤のうしろ姿を見送りながら、由宇は嘆息した。心もとないが、図書室には一人で向かうしかない。
試験期間中の図書室は、由宇にとって想像以上に場違いだった。
まず、先週までいたはずの本を探したり読んだりしている生徒がいない。代わりに、黙々とシャーペンを走らせている生徒がテーブルを埋めていた。
由宇は途中で何度も引き返そうと思った。図書室の外で堤が来るのを待って、二人で席につこうと思ったのだ。しかし、これからどれだけ生徒が増えるのか由宇には予想もつかない。堤のためにも席をとっておいたほうがいい気がした。堤が来るまでの我慢だ。早く、早く来てくれ。
けれど、由宇の願いとは裏腹に、堤は十分経っても、二十分経っても姿を現さなかった。由宇の不安は次第に苛立ちに変わっていた。
試験期間中に生徒を残らせるなんて、教師としてどうだろう。それが優等生の堤だとしても、多少は試験勉強の邪魔をしていると言えないか。そもそも、どうして堤だけが呼び出されたのだろう。女の学級委員は? 呼び出されていたかもしれないが、由宇には知りようがなかった。
堤が「悪い、遅くなった」と低く落とした声で詫びながら由宇の向かいの席に座ったのは、ほんとに教師の呼び出しだったのかと由宇が疑い始めた頃だった。
「おそい!」
眉をつり上げて由宇が言うのに、堤は「悪い」とただ繰り返した。
言い訳の一つもあっていい気がした。でも、堤はそれ以上何も言わない。無言で鞄の中から問題集、ペンケースと取り出していく。
「頼まれごと?」
「ああ」
「なんの?」
「なんでもいいだろ」
由宇にはなんとなくピンとくるものがあった。
「うそだ、担任の呼び出しじゃなかったんだ」
堤は無表情のまま由宇を見すえまばたきを二回した。
いつもの平静な堤の顔に見える。けれど、内心の動揺を押し隠そうとしているようにも由宇には見えた。
「なんだったの」
「たいしたことじゃない」
「だったら教えてくれてもよくない?」
次第に高くなる由宇の声に、堤は一言「出よう」と言った。
「え?」
「ここでこれ以上しゃべると迷惑だ」
堤はそれだけ言うと、机の上に広げたばかりの問題集やペンケースを鞄に戻し、席を立った。
由宇はその勢いに引かれるように、後を追った。
図書室の裏は、グラウンドに面した吹きさらしの廊下になっている。由宇が慌てて廊下に出て首をめぐらすと、堤は手すりに軽く背を持たせかけて立っていた。
梅雨をとばして今にも夏がやって来そうな強い日差しを背に、堤の顔半分に暗い影が落ちていた。空調のきいた図書室から一歩出ただけでじんわりと汗ばむ暑さにも関わらず、半分だけのぞく堤の顔色は血の気を失って見えた。
何と声をかけていいのか、一瞬由宇は戸惑った。
そもそも、堤が誰に呼び出されて、どこで何をしていようと、由宇には何も言う筋合いはない。久しぶりに堤と勉強できると浮かれていたところへ水を差されて、由宇が勝手に腹を立てているだけだ。
その子供っぽい言動を謝ればいいのか、それとも今日はこのまま立ち去った方がいいのか。決めかねている由宇に、先に言葉を発したのは堤だった。
「悪かった」
「なんで?! 堤が謝ることなんて、何もない」
「いや、あんな説明じゃ、向井も訳が分からないだろうなと思って」
「それは、そうだけど」
堤は、腹にたまっている重いものを吐き出すように大きく息をついて、
「呼び出されて、付き合ってくれって言われた」
「告白の呼び出しだったの?!」
そうだ、木下は堤にふられたと言っていたではないか。由宇はその可能性に全く思い至らなかった。
「OKしたの?」
「断った。話したこともない相手だった」
「え、そこ? そんなのどうでもよくない?」
「向井ならそうだろうな」
堤が薄く暗い笑みを浮かべた。
これは、告白された話だよな? と由宇は疑問に思う。それにしては、堤の顔色は冴えない。
「それで、どうしたの。その子」
たっぷりと黙り込んだ後、「断ったら」と堤が続けた。
「泣かれた」
「うん」
「本当に無理だと思った」
告られて、ひとまず断ったら、泣いてすがられて。どんな美味しいシチュエーションだろう。由宇なら確実に抱きしめている。想像しただけでちょっと勃ちそうになったほどだ。
「それは女子がだめなの? だからAVも興味ないの?」と由宇が恐る恐る聞いてみると、「そんな話、したか?」と堤が小さく笑った。
「確かに見ないな。そういうのがだめなんだ」
そういうの。
その薄いオブラートは、どこからどこまでを包み込むのだろう。
真面目な堤は性的行為に興味がないのかと由宇は思っていた。でも聞く限りそうではなく、むしろ嫌悪感のようなものを抱いているきらいすらある。
何かを言わなければいけない気がした。堤の気持ちが一瞬でも軽くなるような何かを。けれど、いくら探しても由宇の中に適当な言葉は見当たらなかった。何を言えばいいのか分かるほど、由宇は堤のことを何も知らなかったのだ。
それでも由宇が口を開きかけた時、堤が顔を上げて「悪かったな」と言った。それは今までの暗さをすっぱり切り捨てたような言い方だった。
「話はこれで終わりだ。戻ろう」
すれ違いざま、堤は由宇の二の腕あたりをぽんと叩いた。振り返ると、堤はそのまま図書室の中へ消えていった。運動部のかけ声のしないグラウンドは静かだった。廊下には、由宇とエアコンの室外機の送風音だけが残された。
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