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 翌日の放課後、図書室で向かいあった堤は、いつもの穏やかな堤だった。  その表情も口調もあまりにいつも通りだったので、昨日のことは夢かなと由宇が一瞬思ってしまったほどだ。堤がこういう態度に出る以上、由宇から不用意に昨日の話題には触れられない。由宇は、きっと自分はいつも通り振る舞えていないんだろうな、それでも堤は気付かない振りをしてくれているんだろうなと内心苦笑しながら、なんとか平静を装っていた。  ふと、手元のノートに黒い影が落ちる。由宇が顔を上げると、小田桐先輩が立っていた。 「ほんとにいた」  小田桐先輩は、白く細い指で髪の毛を右耳にかけた。   「放課後はずっと勉強?」 「うん」 「昼休みは?」 「昼休みは、してない」 「じゃ、昼休みかな」 「うん」 「まだ持ってる?」  一瞬何のことか分からなかった由宇は、やがてはっとしてズボンの布越しに小田桐先輩から受け取ったコンドームに手をあてた。  小田桐先輩が薄い唇に微笑をのせた。そして、「邪魔してごめんね」と堤に向かって言い、去って行った。  堤が、手元から顔を上げないまま、「良かったのか?」と端的に言った。  由宇はこくこくとうなづいた。良いか悪いかでいえば、もちろん良い。由宇の中で、席を立って小田桐先輩を追いかけるという選択肢はなかった。 「彼女じゃないのか?」 「違う……びっくりした」  勉強しにきた風でもないし、本でも返しに来たのだろうか、と由宇は思う。  堤は、シャーペンを走らせる手はそのままに、「ほんとに勉強してるか見に来たんだろ」とさらりと言った。 「俺が? なんで?」 「嘘ついて、他の子と遊んでるとでも思ったんじゃないか?」 「まさか。先輩には、俺が他にも遊んでる子いるのちゃんと言ってるし、そんなことしないよ」 「たくさん彼女がいるって話は本当か」 「だから彼女じゃないって。て、え、堤、そんなの誰に聞いたの?」 「同じクラスに二ヵ月もいれば自然と耳に入る」 「他にどんなこと聞いた?」 「さぁ、なんだったかな。放課後、教室で抱き合ってたところを教師に見つかったとか」  やはり人のうわさは当てにならない。由宇が見つかったのは、放課後の教室ではなく、昼休みの図書室だ。  堤はシャーペンを走らせる手を止めて、「聞いていいか?」と顔を上げた。 「何?」 「複数と同時に付き合うのは、どういう気持ちなんだ?」 「へ?」  思いがけない問いに、由宇は思わず変な声が出た。あの堤が、恋愛の話をしている。 「後ろめたさはないのか?」 「えっと、そうならないように、他の子とも遊んでることを先に伝えてる。そうすると、付き合おうって言われないし、なんで他の子と遊ぶのって怒られることもない」 「なるほど。向井に都合よく聞こえるが、縛られないのは相手も同じか。お互い本気じゃないから成り立つ」 「少なくとも俺はほんとに好きだよ。好きじゃない子とは遊べない。先輩と会ってる時は、全部がきれいで、好きだなって思う。後輩だと、笑うとほっぺが丸くなって目の下にちょっとシワが入って、かわいいなってなる」 「自由すぎないか」 「嘘がつけないんだ」  堤は「それを自由と言うんだ」と繰り返した。  含みをもった言い方に、由宇は胸がムズムズした。今なら、堤から恋愛の話題をふってくれた今なら、聞いてもいいような気がする。いいかな、すっと引かれた白線をとびこえて、堤の領域に踏み込んでもいいのだろうか。  なんで堤は彼女つくらないの? 何がそんなに無理なの?  質問はとてもシンプルだ。でもたぶん、答えは込み入っている。由宇は、自分が人より少し無神経な人間だという自覚があった。もしこれを聞いて、堤が由宇とこれまでのように一緒に勉強してくれなくなったら、それは由宇の本意ではない。  聞きたい。けれど、聞いて距離をとられたくない。でもやっぱり気になる。  由宇は、頭をぐしゃぐしゃとかき回したい衝動に駆られた。人付き合いでこんなに頭を使ったことがない。完全に脳みその容量オーバーだ。  だいたい悩むなんて由宇らしくない。もういい聞いてしまおう。  心を決めて、唇を開きかけたちょうどその時、 「悪い、勉強しよう」 と、堤が言った。  それは、由宇には、もうこの話は終わりという合図に思えた。  ようやくついた決心がしおしおと萎びる。  でもこれで良かったのかもしれない。  由宇は気付かれないよう小さく嘆息して、問題集に向かった。
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