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車内は恐ろしく静かだ。いつの間にか俺一人。他の乗客が誰も居ない……終電だから乗客が少ないのはいつものことだが、誰も乗っていないなんて……どうなっているんだ?
「こんばんは。お兄さん」
不意に声を掛けられ、俺は声のした方に顔を向けた。正面の長椅子に一人の少年が座っている。
黒のシャツに黒のズボンを身に付けた、濡れたように艶やかな黒髪の少年だ。
輝くような白い肌と、少女のように整った顔立ち。深い青と血のような紅をした切れ長の異色瞳がゾッとするほど美しい。
この少年、いつの間に……?
そもそも、終電に子供が一人だけなんて、親は何してるんだ?
俺の戸惑いを他所に、少年はニッコリと微笑むと、胸に手を当てて一礼した。
「僕の名はヴォーダン。お兄さんの名前を教えてよ」
「俺の……名前?」
ヴォーダンと名乗る少年に問われ、俺は戸惑いを覚えた。
あれ……俺の名前、何だったっけ?
自分の名前が出てこないなんて……いや、名前だけじゃない。頭が真っ白になって何も分からない。
胸に不安が湧き上がり、焦りに動悸が早まる。焦るな。落ち着け。
俺は自分の額を思いきり殴った。学生時代、試合前に緊張して頭が真っ白になったとき、こうすると頭が冴えるんだ。
「一馬。俺の名前は、安心院 一馬だ」
名前を名乗ると、今までの焦りや不安が嘘のように消えて、気持ちが落ち着いた。
何だったんだ? 今のは……
俺の名前を聞いたヴォーダンは、驚いたように目を見開き、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「凄いな。僕の前に立って、はっきりと自分の存在を定義できる人間はなかなか居ない……カズマ=アジム、君は合格だ」
「合格? なんだそりゃ」
子供らしからぬ大人びた態度でそう告げるヴォーダン少年に、俺は眉を顰めた。
終電の車内で子供に名前を聞かれ、答えて名乗ったら合格だと言われる……何のことかよく分からん。
「言葉の通りだよ。この世界で僕の前に立つ人間の殆どは、自らを見失って発狂してしまう……でも、君は自我を取り戻し、僕に自らを定義して見せた。だから、合格」
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