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「桜庭のガキに逃げられたんだってな」
「あ?」
クヌギの本部は、日本屈指のオフィス街の一角に堂々とそびえるビルである。名だたる大企業と肩を並べ、裏社会の住人たちが多く出入りするアジトが構えられているのだ。
現在クヌギは桜庭優征のスパイ行為ににより流出した情報や紛失したデータの洗い出しに上司たちが奔走しており混乱していた。伊織は、桜庭の奪還のために敵組織の動きがないか等気を配っていなければならなかった。
その上、10年間という長い期間をスパイとして潜入していたからにはクヌギ内の誰かしらの手引きがあったとしか思えない。
伊織は桜庭の内部協力者を見つけ出すよう命じられている。…それだけ今回の件は大事なのである。
浮ついた組織内の空気に嘆息しながらエントランス横の喫煙所で一服していた伊織に話しかけてきたのは、伊織と同じく用心棒の一人である男であった。
「息子一人と娘一人だっけ?」
桜庭優征の子供の話をしているのだろう。ふっと煙を吐きながら ああ、らしいな、と返事を返す。
「惜しいなぁ。ガキがいりゃ桜庭も一発なのに」
桜庭は未だ拘束されてだんまりを決め込んでいるそうだ。彼がスパイ行為を働いていたからには本当の所属があるわけで、その組織がどこかは割れている。しかしその組織の情報を引き出そうとしてもなかなか手ごわいのである。さすがは10年もスパイとしてクヌギに潜入しキャリアを築いた男である。
おそらく家族等の人質がいれば優位に事が運べるのだらうが、命令を受けて桜庭の子供を回収しに行った伊織の報告は「もう逃げて行方がつかめなかった」というものであり、人質という策もいまは尽きている。
………もちろんこれは嘘であるが。逃げて行方がつかめないなど、伊織の個人的な愉悦のための虚偽でしかない。
この嘘がバレたら伊織までも裏切り者扱いされかねないが、失うものなど特にない彼はためらうこともなく嘘をつくことができた。
現に今も男にその話をされても顔色ひとつ変えることなく、受け答えているくらいだ。
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