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その時、朝の始業を告げるチャイムが鳴り響いた。一瞬隆明の気が逸れたのを感じ、奈緒は「…落ち着けって」と声を絞り出し痛いほど強く肩を握る隆明の手を緩める。
キスマークを指摘されたことで動揺した心を落ち着け、平静を装う。
「お前が心配するようなことは何もねぇよ。」
「…」
「勘違いさせたんなら謝る。変な態度とって悪かった。」
「…じゃあ、それはなんだ?」
「秘密。
野暮なこと聞くなよ。」
再び赤い跡を指摘されても、奈緒はもう先程のような隙は見せなかった。茶化すような態度ではぐらかしてみせる。隆明は納得できるはずもなく、不満げな表情を浮かべたままであったが、今この場は引き下がるしかないと悟った。奈緒が頑固であることは、隆明自身よく知っていたからだ。
諦めたように奈緒の肩から手を外すと、彼はするりと壁と隆明の身体の間をすり抜けた。奈緒の匂いと温もりが目の前から離れていくのを、隆明は黙って見ていることしかできない。
奈緒は振り返り、いつもと変わらない気怠げな表情で言う。
「先に教室戻れ。遅刻扱いになんぞ。」
「奈緒は?」
「俺もすぐ行く。用足してから」
「………わかった」
隆明はそれ以上何も言わなかった。無言でその場を後にする。
奈緒の表情から一気に余裕が失われ悔しさと恥ずかしさで歪んだのは、隆明の足音が聞こえなくなってからだった。鏡に映る自身を見たくないとばかりに、手の甲で目元を覆いぐっと唇を噛み締める。
「くそ……………っ」
首筋に残る、欲望のままに貪られた跡。隆明に言われるまでは気付かなかった。
まるで所有物だと言わんばかりの見えやすい部分に付けられている。あからさまなところにつけやがって。ふざけるなと悪態をつきたかったが、あの男の有無を言わさぬ強引な瞳が脳裏を過ぎり言葉が出なくなる。同時に、車内の緊張感、手の中の律動、口の中の感触。思い出したくもないことが次々に鮮明に思い出される。
あんな屈辱的な時間は初めてだった。
薄暗い車の中で見下げられ、命じられるままに握らされ、咥えさせられた。芹香や自身の命運を握っている男であるということを抜きにしても、抵抗など出来なかった。男の持つ空気に、覇気に飲み込まれて、従う以外に方法がなかったからだ。
奈緒は男子トイレの鏡の前でしばらく立ち尽くしていた。
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