快楽

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下校途中。鮮やかなランドセルを背に仲良さげに連れ立って歩く芹香と友人は交差点で立ち止まり、顔を見合わせる。 「じゃあ、帰ったらわたしの家集合ね?」 「うん!」 「早くきてね!」 そう言って友人は手を振り、交差点を曲がって住宅街の方へと姿を消した。芹香は交差点の向こう側に渡り、タワーマンションの多い静かなエリアへと歩いて行く。 今日芹香は今別れた友人の家で遊ぶ約束をしていた。一旦家に帰りランドセルを置いてから向かう予定だ。 元気なポニーテールがトレードマークの彼女は、芹香にとってクラスで一番仲の良い友人だった。登下校も一緒、休み時間も体育の時間も一緒、放課後もよく遊んでいる。今日も遊べることが嬉しく、芹香は早く荷物を置いて彼女の家に行こうと足早に歩く。 いつもの様にオフィスビルのエレベーターに乗り9階へ。本日も事務所に父の姿はない。しばらく顔を見ていないことを思い出し、芹香の中に少々寂しい気持ちが湧き上がった。兄は海外出張だと言っていたが、今回はいつ帰ってくるのだろう。父が家を空けることは珍しいことではないが、海外出張に行くときはいつも事前に教えてくれるのに。 そんなことを思いながら階段で10階へと駆け上がり、カードキーで家のドアを開けた。 「ただいま!」 溌剌とした芹香の声が玄関に響くが、家は暫く静まり返っていた。 …まだ奈緒は帰宅していないのだろう。 一般的に、小学校より高校の方が授業が終わるのは遅い。帰宅しても誰もいないことには慣れっこだった。早く準備をして出かけなくちゃと靴を脱ぐ。 しかし、芹香が家に足を踏み入れるとようやく廊下の奥、リビングルームの方で物音がした。ややあって扉が開き、兄が姿を見せる。 「芹香おかえり。」 「あっ」 意に反した兄の出迎えに、芹香は嬉しそうに彼に抱きつく。 「ただいま!いないかと思ったぁ」 「ん、すぐ気づかなくてごめんな。」 「なにしてたの?」 「勉強。明後日から中間テストあるから。」 今日珍しく芹香よりも早く帰宅しているのも、テスト期間前の短縮授業だったからのようだ。既に制服から黒いスウェットの部屋着に着替えている。 芹香は兄がいるのが嬉しく、ランドセルを置くのもそこそこにリビングで今日あったことを楽しげに話し出す。奈緒はその様子を愛おしそうに見守った。 話に親友の名前が登場したところで、彼女は大切なことに気がつき、あっと口を抑えた。 「早くいかなきゃ、いけないんだった…」 「どこか行くのか?」 「うん。今から、あおいちゃんちにあそびに行くの」 その時、少しだけ奈緒の表情が安堵に緩んだ。ほんの一瞬のことで芹香は気がつかなかったが。 芹香は慌てて好きなキャラクターのプリントされたバッグにお菓子や携帯ゲーム機、宿題を一緒にする約束もしているのか算数のプリントなどを詰め込み肩に掛ける。その傍らで奈緒は、携帯を持ったか、5時になったら帰れと母親のように声をかける。 過保護なのは承知しているが、最愛の妹に対してはいくら心配してもし切れないのだ。 支度を終えた芹香は、愛用のサンダルを履きながら奈緒の方へ振り返った。 「いってきまあす、おにいちゃんお勉強、がんばってね」 無邪気な笑顔に癒され、奈緒は笑みを浮かべてその小さい妹の頭をくしゃくしゃと撫でた。バタンと扉が閉まり、階段を駆け降りる可愛らしい足音が遠ざかっていく。 広い家に再びがらんとした静寂が満ちる。 奈緒は芹香の足音が聞こえなくなるまでドア越しに佇んでいたが、やがて重い足を動かし自室のドアの前まで歩みを進めた。奈緒の自室は玄関からリビングルームを抜けた先にある、バルコニーに面した部屋だ。 息を吐き、ドアに手をかけようとする。 …その瞬間、内側から勝手にドアが開いた。中から伸びてきた筋肉質な腕が奈緒の部屋着の裾を無造作に掴むと、強引に室内に引き摺り込む。
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