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4.遠野静子の過去
◇
鈴木さんはもう先に来て私を待っていた。
彼はいつもの珈琲専門の喫茶店の窓際の席で煙草を吹かしながらコーヒーを飲んでいるところだった。
「鈴木さん、ごめんなさい、遅れて・・」
私がそう言って席につくと鈴木さんは吸いかけの煙草を灰皿で揉み消した。
私より先に就職の決まっていた彼はそれまで長く伸ばしていた髪をばっさりと切り今は七三にきれいに分けている。よれよれのジーパンはいつも通りだ。
長い時間待っていたのは煙草の吸殻の本数を見ればわかる。
「いや、そんなに待ってない」
私は面接の為に買った黒のスーツを着ている。彼の前でスーツを着るなんて初めてのことだ。
けれど彼は私の服を見ていない。少しは見て欲しい。
ウエイトレスが注文を訊きに来ると私は彼と同じ銘柄のコーヒーを頼んだ。別に違う銘柄にしてもかまわないのだけど一緒にしないと落ち着かない。
いや、たぶん落ち着かないのは彼の方だ。
「それで仕事は決まったのか?」
彼は少し疲れているように見える。
「ええ・・」
すごく長い時間の最終面接だった。
「前に言ってた・・その、何と言う名前だったかな・・そうそう・・『長田』だ・・その長田という家に決まったんだな?」
灰皿には吸い終わった後の煙草が何本も連ねて丁寧に並べられている。長さが全部同じだ。彼は几帳面な性格だ。
私も同じように昔から几帳面だったから「お互い気が合うな」と彼が言って交際が始まったのは一年ほど前になる。交際といってもお互いにまだ学生だったから、休みの日に映画に行ったり食事をしたりする程度だった。
今日は彼とつき合い始めてようやく一年を迎えようとしている日だった。
お互いに大学の単位を落とすことなく卒業できることになり就職も決まっているはずだったが、就職が決まっていたのは彼の方だけだった。
「鈴木さん、気にいらないのですか?」
すごく不機嫌そうな顔をしている。けれどそれは今に始まったことではない。
「だって『住み込み』っていうじゃないか」彼の口調が少し荒くなる。
彼が大きく息を吐くと灰皿の煙草の灰が舞って私の黒のスーツの上に舞い降りてくる。
手で払い除けるとよけいに汚れる。
そう思っているとまた彼が大きな溜息をついた。私は彼の息がかからないように灰皿の位置を変えた。
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