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「それに大福はここに持ってくるのはなくて、灘の工場の方に、と言ったはずです」
静子さん、そんなこと言ってたかしら?
「いやあ、奥さん・・」芦田さんはそこまで言うと咳払いをして「いや、遠野さん・・でしたっけ?・・確か、ご自宅の方に送るようにと言われてましたよ」と言った。
「ご、ご自宅っ」
芦田さんは「自宅」と言ってしまい「しまった」というような顔をする。
「い、いや、こちらさんの住所に、と」
芦田さんは選ぶ言葉に大変そう。
「それに伝票の配達先に書かれてあるご住所がここになっていたもんですから」
「・・そんなはずはありませんっ」
静子さんは自信があるみたい。
芦田さんは頭を掻きながらショルダーバックの中から伝票を取り出しぺらぺらと頁を捲り出した。
「ええっと・・ここに・・」
少し得意げに芦田さんはここに配達するよう指示した伝票の頁を開いて差し出す。
「ちょっと見せてください」
静子さんは差し出された伝票を手にした。
「あら、やだ、本当だわ、ここの住所だわ。それにこの字は・・書いたのは・・私・・」
静子さんの表情は見えないけれどいつものように真っ赤になっていると思う。
「芦田堂さん、も、申し訳ございません!」
突然、静子さんは勢いよく体を折って謝った。
そのまま折れるのではないかと思ったくらい深く頭も垂れた。長い黒髪がバサッと前に垂れる。
「いやあ、こっちは別にいいんですけど・・」
そう言われても気がすまないらしく「あ、あの、芦田堂さん、もしよろしければ、中でお茶でも・・」と誘った。
その「芦田堂さん」っていう言い方もどうかしら?
お名刺には確か「芦田弘」って書いてあったわ。
「お言葉は嬉しいんですけど、はよ、大福を工場の方に持っていかんと・・それに他にもまだ配達がありますんで」
芦田さんは笑顔を浮かべながら丁寧にお断りの言葉を述べている。
「静子さん、芦田さんをお引止めしては悪いわよ」
また静子さんは、はたと呼び方に気づいたようだ。
「そ、それもそうですね・・あ、あの、芦田さん、また今度ゆっくりと・・」
静子さんはそう言っておでこに振りかかっている黒髪をかき分けた。
「おおきに、ありがとうございます、ちゃんと工場の方に届けておきますので!」
芦田さんは愛想良く何度も私たちに挨拶をして家を出た。
そう、静子さんは生真面目だけれど、とても慌てんぼさん。
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