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 一瞬で空気がかき混ぜられたように感じたのは、男とともに紛れ込んできた森林のような香りのせいだろうか。走ってきたのだろう、軽く息を乱し、うっすらと額に浮かぶ汗をぬぐっている。手に持つライトグレーのスーツの上着は、握りしめられたせいで皺になってしまっている。 「…すみません」 「いえ…何階ですか?」  息を整えながら謝る男に尋ねた。 「13階です」  その言葉に頷きボタンを押すと、今度こそ扉は閉まり、エレベーターは動き出した。  13階。確か、外資系の保険会社が入っているところだったか。複数の企業が入居するこのオフィスビルには、実に様々な種類の人間が出入りする。それでも、この男のようにきっちりとしたスーツを身に着ける人は、そう多くはない。特に社外へ出向くような職種でなければ、カジュアルな服装でも大抵許される――例えば自分のように、業務時間のほとんどをコンピューターと対面しているならば。となると、おそらく営業か、広報あたりだろうか。  細身のスーツに短めの黒髪を撫でつけた姿に一見同世代かと思ったが、少し焦った様子と、申し訳なさそうに下げた眉に黒々とした瞳を見ると、実際はもう少し若いのかもしれない。  わずか斜め後ろから男を観察している間にも、エレベーターは一気に上昇していく。この時間に出社するときに、人と居合わせることなど滅多にない。むしろそのために、わざわざ早く来ているのだから。  そう思い始めると、理不尽にも苛立ってきた。全体は細く見えるが、自分にはない適度に厚みのある胸板と、広い背中――長い間、淡く恋い焦がれている後姿と重なり、余計に腹が立つ。  そんな八つ当たりめいた視線を向けられていることに気づく様子もなく、男はもたもたと手にしていたジャケットを広げ、袖に腕を通していた。その風に乗って、先ほどの温かな木々の香りが再び鼻をくすぐった。人好きのする爽やかな外見に、同じく爽やかな香り。この男の周りには自然と人が集まってくる、そんな様子が想像できた。きっと引く手数多だろう。女性からも――僕のような男性からも。
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