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「っ――」  ふいに振り返った男と一瞬目が合った。下世話なことを考えていたことに気づかれたはずはないが、不自然に視線を逸らし、額にかかる長めの前髪で表情を隠す。  どことなく気まずい沈黙の中、一つ目の目的地に向かってエレベーターは減速し、少し揺れながら停止した。男はモニターに映る停止階を確認し、入ってきたときとは打って変わって、ゆったりとした足取りで降りていく。その背中を、もう一度恨めしい目で見つめた。  扉が動き出した瞬間、男は振り返り、驚いたように少し目を瞠って――きっと僕の視線が余程恨みがましかったのだろう――ふっと柔らかい笑顔を浮かべて会釈をしてきた。  その笑顔に応じる間もなく扉は閉まり、少し呆然としたままエレベーターは動き出した。男の残していったみずみずしい香りは、再び扉が開くまで消えることはなかった。  後から思い返すと、この閉ざされた箱の中で一度も息苦しさを感じなかったのは、その日が初めてだった。
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