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「今日は湿気が酷いですね。まだ梅雨には早いはずなのに」
血色の良い唇が、よく動く。僕は大抵、曖昧に返事をしたり、頷くだけだ。毎朝おはようと挨拶を交わし、隣り合って歩き出す。彼はどんなに酷い天気の日でも、その珍しい出来事を愉しんでいるような調子で話し始め、ほんの些細なことからどんどん話題を広げていく。
営業というのは彼にとって天職だろう。驚きに目を瞠る、感心したように瞬く、嬉しそうに目を細める……目元だけでこんなにも表情が豊かだ。時折僕がぽつぽつと話し出せば、静かな目でじっと見つめられる。その深い漆黒の瞳をまっすぐに向けられると、どうしても胸がざわつく。一回一回は短い時間とはいえ、仕事以外で一人の人間と毎日話すなんてことは久しぶりだからだ――誰に訊かれたわけでもないのに、そんな言い訳を繰り返している。
「白坂さん、昼はいつもどうしているんですか?」
いつも通りの朝、瀬戸が突拍子もなく尋ねてきた。
「食べる時は社食かな……外に出る時間ももったいないし」
特別美味い訳でもないが、安さと速さが取り柄の食堂を思い浮かべながら応えた。食べ終えればさっさと仕事に戻ることが出来るのはありがたい。
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