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「ビュレットとホールピペットは水で濡らすなよ、絶対だぞ」
西は声を張り上げながら、どれだけの生徒がちゃんと聞いてるんだろうなあと思う。なぜなら毎年、『絶対にやるな』と言ったことをやるやつが現れるからだ。毎年必ず落ちている蝉の死骸ように、それはそれは一定数の割合でいるのである。
今日は中和滴定という、二つの液体が中和する濃度を調べる実験だ。
言葉でいうと西もあまりおもしろいとは感じられない。だが、液体Aと液体Bという異なる液体同士が混ざり、ちょうど互いの性質が打ち消されるところを色で見るのがおもしろいのだ。
はじめはただ濃度を調べるために行う実験だと思っていた。それが実験を、化学をつまらないものにしているとも知らずに。
しかし高校時代、中和滴定の実験で西の見る目はガラリと変わった。
異なる性質の液体同士が混ざり合い、色が変わっていくことに、惹きつけられたのだ。
ちょっとずつAにBを垂らしていくと、液体は突然色が変化しなくなる。それはAでもBでもない、『何ものでもない』液体が完成する瞬間。
それを目の当たりにしたとき、西は化学の本質に触れたと思った。それは同時に、西に世の中の本質をチラリと見たような気にさせたのである。
それから西は、化学の道に進むことを決めたのだった。
「西先生」
ぼーっとしていた西は、突然の呼びかけにびっくりして、手にしていたビュレットを落としそうになる。
「わっ、びっくりさせるなよ」
「すみません……あの、共洗いしたあとに間違えて水で洗ってしまったんですけど、余分の水酸化ナトリウム水溶液をもらえますか?」
斎間玲は優等生らしく背筋を伸ばし、すまなそうに頭をペコリと下げた。間違えたのはおっちょこちょいで有名な新井だろう。班の机から、新井が顔の前でごめんなさいのポーズをしてこちらを向いている。
女の子をかばうなんて、優しいやつなんだな。西は自分のことのように謝る斎間を見て思った。
端正ではっきりした顔立ちに、短くて色素の薄い髪、特別秀でたパーツはないけれど、全体的にバランスのいいルックスだ。間違いなく女子は好きだろう。身長は百七十センチの自分より四、五センチほど高そうで……。
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