第2章 ナチュラルスライダー

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第2章 ナチュラルスライダー

残すは決勝だけだ。あと一つ勝てば、夢の甲子園だ。大会前、勇一たちはひょっとしたら甲子園と考えていたが、周囲は誰もこの快進撃を予想していなかっただろう。 「無欲の勝利だ。相手は下手に昔、甲子園経験があったから硬くなっていた」 物理教師で「スポーツは力学だ。力学的に野球を指導する」と言って、週に2度練習を見に来る監督の「エレキ」こと井田が妙に納得した顔で言った。 エレキというあだ名は「元気にやれ。元気に積極的にやれば運動量が高まり道も開ける。元気さは物理の世界の電気、つまりエレキのようなものだ」と勇一たちに繰り返すので付いた。教師は愉快な方がいい。 勇一の決め球のスライダーは準決勝でも不思議なくらいよく曲がった。疲れていて変な力みが取れたせいだろうか、大会に入って一番よく曲がり、落ちた。言葉通りスライドするように滑らかに変化した。 勇一は5歳のとき、兄と一緒に家の中で鬼ごっこをしていて窓ガラスに体ごと突っ込んだ。ガラスが粉々に割れ、右手の人差指が第二関節からちぎれそうになるくらい深く切れた。大声で泣き叫んだのをはっきり覚えている。 今は亡くなった警察官OBの祖父が慌てて駆けつけてきた。勇一の手を見ると「タオル」と大声を上げながら隣の部屋のタンスからタオルを持ってきて、手をグルグル巻きにして抱え上げ走り出した。200㍍ぐらい離れた小学校前にある医院に駆け込むと「おーい、指がちぎれそうなんだ。縫ってくれ。手術だ」と叫んで医者を呼んだ。敏腕の刑事だったという思い出話を勇一はよく聞かされたが、いざのときの手際の良さはさすがだった。 誤算だったのは、祖父の子供の頃からの友人で、小学校の校医も務めるその医者が、専門は内科だったことだ。後から祖父に聞いた話では、医者は血みどろの手を見て「指の縫合なんていつ以来かな」と緊張して汗ビッショリだったらしい。祖父はそのとき運んだ先がまずかったかなと後悔したそうだ。 大急ぎで指を縫う手術が行われた。だが、どういう縫い方をしたのか、治っても指が完全には伸びきらず、少し外側にねじれるようについてしまった。 気にした祖父は酒に酔うといつも「手術をし直したらいい」と言ったが、勇一は「いいや」と断ってきた。最初、箸を持つ格好が気になったが、すぐに慣れた。鉛筆やペンを持つときは指の外側で押さえつける形になり、逆に便利だった。
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