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「……、先生……」
先生?
さっきから先輩とか先生とか、学生でもない志岐さんたちからの言葉に違和感を覚えた。
村瀬さんが早川さんに船をもっと寄せるように言っている。「急に呼び出しておいて勝手じゃのお」と文句で応えた早川さんが急に、舳先から桟橋に飛び移ろうとしていた村瀬さんを止めた。
「村瀬、あれ!」
早川さんの引き止めに村瀬さんも何かに気がついたようだ。俺たちの後ろを見ながら「ふたりとも、避けろ!」と大声で怒鳴った。
俺と志岐さんも反射的に村瀬さんたちが見ている方角に向き直る。そこに見えたのは、桟橋のゲートを軽々と飛び越えた黒い影。それはスピードを落とすこともなくガツガツとアスファルトを蹴って一直線に駆けてくる。頭を低くして生え変わり途中の先の丸いツノをこちらに向けて、闘牛の牛のように俺たちに突っ込んできたのは……。
「ボス!?」
隣にいた志岐さんを咄嗟に突き飛ばす。駆けてきたボスは俺の直前で急に止まって、前脚を振り上げて後ろ脚で立ち上がる。まるでその姿は西部劇に出てくる暴れ馬みたいだ。ブフッ、と鹿らしからぬいななきをあげた目の前のボスは、口から泡を噴いて毛はすべて逆立っている。
「ありゃ、花火に怯えて我を忘れちょるぞ」
「カズトっ、岸田先輩っ! 今行く!」
「誠!」
「先生、立つなっ」
誰が誰の台詞だかわからない。そのうえ、今夜一番の特大花火が夜空にいくつも炸裂して、その光と音にそれぞれの声すらかき消されてしまう。そしてとうとう、花火の音にボスは限界を迎えた。
「ブフォンッ!」
ボスが俺の胸をツノで小突いた。だけどそれは、トンッ、て感じ。でも一瞬、花火に気を取られていた俺はぐらりと後ろに体勢を崩した。
「カズト!」
ふわっとした浮遊感。急に村瀬さんの叫びが聞こえなくなった。
代わりにゴボゴボという音がすると、俺の体はいつの間にか冷たい水に包まれていた――。
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