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***  本館の玄関先に戻った村瀬さんは、そのまま今度は紅葉谷へと続く紅鹿館の庭の遊歩道を歩き始めた。  この道はいつも俺が掃除してるんだよ、って言いたかったけれど、黙ったままの村瀬さんの雰囲気に気軽に声なんてかけられない。  遊歩道をしばらく行くと最初の離れの部屋が見えてきた。あれは『薫風(くんぷう)の間』。入り口の玄関先には灯りが点っているけれど、屋内の電灯は消えている。志岐さんはまだ戻っていないんだ。あれから志岐さんたちはどうしたんだろう。一緒に残されたおじさんは誰だったのかな。  そんなことを思っていたら、村瀬さんは足早に薫風の間を素通りした。そして次に見えたのが『紅葉(くれは)の間』へと続く道。ここも玄関先まで案内するように灯りが点いているけれど、今夜は宿泊客は居ないはずだ。もしかしたら利用客は居なくても、夜は必ず離れの玄関先だけは明るくしているのかもしれない。  紅葉の間も通り過ぎた村瀬さんがちょっと立ち止まって、ゆさっと俺を背負い直す。やっぱり重いのかな。俺はだらんと垂らしていた両手を村瀬さんの胸の前でクロスさせて、少し力を込めた。  濡れているシャツを透して、村瀬さんの体温がじわりと肌に沁みてくる。海の匂いのする村瀬さんの後ろ髪にほほを寄せて目を閉じる。小さく上下する揺れと木々の合間に響く村瀬さんの足音が、俺たちだけしか世界に存在していないみたいで、とても不思議な気分になった。
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