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「うちの旅館にある三つの離れが特別な部屋だってことは知っとるな」 「うん。紅鹿館の創業当時からある貴賓室なんだよね」 「そうじゃ。だから俺や姉さんでも、子供のうちは庭先に近づくことも許されんかった。実は俺も、ここまで入ったのは今夜が初めてなんだ」  跡取り息子だった村瀬さんでさえ入室が許されなかった場所。じゃあ、村瀬さんも知らない秘密の部屋があっても……。 「もう一回言っとくが、座敷牢は無いからな」  うう、疑問が顔に出てたみたい。恥ずかしくて視線を泳がせた俺の様子に、村瀬さんは小さく笑うと話を続けた。 「子供のころは入れんかった離れじゃけど、村瀬の家の者は生涯で三回だけ、客扱いで使うことを許されるときがある」 「三回だけ?」 「昔からのウチのしきたりなんじゃ。十六になったときに薫風の間を、二十になると紅葉の間をそれぞれ三日間好きに使える。将来、旅館の跡を継ぐ者として、最高の部屋ともてなしがどういったものか勉強せえってことなんじゃけど、姉さんなんか、友だち数人と一緒に泊まって大はしゃぎしとったな」  女子高生の明里さんなんて想像もつかない。村瀬さんも広くてきれいな離れの部屋に興奮して、友人とわいわい騒いだりしたのかな? 「じゃけど、この鹿鳴の間は『ある特別なとき』が来んと、いくつになっても使わしてもらえん。それこそ、この前まで俺は一生、この部屋を使うことは無いと思うとった」  それは村瀬さんが旅館を継ぐのを断ったからかな。  そう思っていたら、いきなり村瀬さんが濡れたタイルの上に片膝をついた。驚いて見おろす格好になった俺の両手を、村瀬さんは大切なものを扱うようにそっと捧げ持って見上げている。その真剣な表情に、こくんと生唾を飲んだ。
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