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 早川さんにお礼を言って新館のフロント裏の事務所へと急いで向かうと「カズトくん、一分遅刻」と厳しい声をかけられる。声の主は朝からきちんと夏用の着物を着た明里さんだ。 「……すみません」  うなだれる俺に明里さんは、 「寿明から連絡もあったし、先に早川くんと厨房に行ったんでしょ? 今回は多目に見てあげるけど次回はないからね」  うう、村瀬さんが先手を打って電話してくれたのか。 「遅れそうなときは自分から早めに連絡すること。寿明にもカズトくんを甘やかさないように言っといたわよ」  はい、とさらに頭をさげると明里さんの厳しいオーラが薄れていく。 「皆はカズトくんが寿明の恋人だって知らんけどね。でも、アイツは坊っちゃんが贔屓にしとるからって色眼鏡で見られると、小さなことでも気に入らない人は出てくるから気をつけんと」  俺のことを村瀬さんの恋人って言い切れる明里さんもすごいな。 「さてと。これから私はお客さまのお見送りに行くからお小言はこれでおしまい。そうそう、タキさんが二階の廊下の電灯が切れとるって言ってたから、あとで交換しといてくれる?」 「わかりました。明里さん」 「ほら。仕事中は若女将、でしょ?」  すっかり怒った空気はなくなって、にこやかな雰囲気が明里さんから流れてきた。 「はい、若女将」  明里さんは村瀬さんの五つ歳上のお姉さんだ。村瀬さんに代わって、板長をしているご主人の大悟さんと一緒に紅鹿館の跡を継いだ。俺を雇ってくれたのはおじさんとおばさんだけれど、実質は明里さん夫婦がこの旅館の経営をしていた。  普段はとても優しいけれど仕事には凄く厳しい。弟の恋人だからって甘ったれたことは言えないのだ。  明里さんが事務所をあとにすると、俺も支度をして自分の仕事に取りかかる。  俺の仕事はいわゆる裏方なんでも屋だ。さっきの電灯取り替えから始まり、客室の布団の上げ下げや浴場清掃、宴会の準備に後かたづけなどさまざま。時には団体客の荷物を運んだりもする。それと俺がIT系の学部にいるからか、宿のホームページやウェブ予約のサイト運営もちょっとだけ任された。基本的には人前に出なくても良い仕事を割り当てられている。
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