(1)

5/26

523人が本棚に入れています
本棚に追加
/169ページ
 フェリーの客室はさすがに朝も早いからか観光客の姿は少なかった。俺は村瀬さんに持たされたビニール袋から、梅と昆布のおにぎりとペットボトルのお茶を出して朝食にありついた。  村瀬さんは料理が上手くて、ちょっとしたものならささっと作ってしまう。お願いしたら大学に持っていく弁当くらい作ってくれるかもしれないけれど、なんとなくそれは周囲に余計な誤解を生みそうで止めている。  大学では周囲のニンゲンには俺の特性のことは言っていない。まあ、今までに培った『対人関係やり過ごしスキル』があるし、高校までとは違い友だちにベッタリというのもないから、結構快適に過ごしていた。何人か話をするニンゲンもできたし、俺にしてはまずまずだ。  大学生活にも慣れたころ、周囲の奴らがバイトをしているのを見て「自分の食い扶持くらいは自分で稼がないとな」と唐突に思った。  別に生活には困っていない。  学費は父親持ちだし、母親の再婚相手の会社社長のおじさんが毎月一定額の小遣いを銀行口座に入れてくれる。そこから幾らか村瀬さんに渡しているけれど、残りを遊びに使うのも忍びないし、なによりも『働く』ということをしたことがなかったから、少し興味も持っていた。  だけど俺には乗り越えられないハードルがある。  相貌失認(そうぼうしつにん)――。  失顔症(しつがんしょう)の俺には接客業はすべてアウトだ。となると必然的にニンゲンと顔を合わせない仕事に範囲が狭められるわけで、最初はファミレスの皿洗いや閉店後の店内清掃をやってみたけど、ファミレスはすぐにホール係をしてくれとうるさかったし、店内清掃は深夜に及ぶことがほとんどで心配する村瀬さんがいい顔をしなかった。 「おまえは顔がええんじゃけえ、そりゃホールでお客の相手をしろと言われるよ」  村瀬さんはかなりの贔屓目でそんなことをいうけれど、他人の顔色が窺えないというのは自分を守るためのマイナス要因だ。 「無理してバイトなんかせんでええ。おまえの本来の仕事は学業じゃろ? たまに俺が帰ってメシができとったら、それでええよ」  ……思い切り俺を嫁扱いしてるよね?
/169ページ

最初のコメントを投稿しよう!

523人が本棚に入れています
本棚に追加