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それはそれでうれしいけれど、どうせ嫌でも社会に出なきゃいけないんだから、予行練習の意味でも自分で稼いでみたかった。
村瀬さんの持たせてくれた朝食を腹に納めると、船室の壁にかかっている観光案内のポスターに視線を移した。その横に島内の幾つかの宿泊施設の案内もあって、その中に俺が今、バイトに行っている旅館『紅鹿館』も紹介されている。そこは言わずと知れた村瀬さんの実家だ。
俺がなぜ、村瀬さんの実家の旅館でバイトをすることになったのか。あれは五月の連休終わりの週末の、あの人たちの来襲に始まる。
***
その日、俺は風呂上がりにソーダ味のアイスをかじりながら、リビングでアルバイト情報誌とにらめっこをしていた。
「カズト、またそんな格好でソファに寝転んでから。風邪引いてもしらんぞ」
パンツ一丁でタオルを首に引っかけて、ソファに寝転がって情報誌を見ている俺に、風呂に行く準備をした村瀬さんが小言を言う。
「ねえねえ、これなんかどうかな? 食品工場でコンビニスイーツの製造だって」
情報誌の開いたページを村瀬さんに差し出す。村瀬さんは顔をしかめたままで情報誌を受け取って視線を走らせると、
「だめ。これも交代制で夜勤がある」
「えー。だって最寄り駅からの送迎バスもあるし二時間からオッケーだし、工場のラインなら他人と話すこともないし」
「これはあの工業団地にある食品工場じゃな。あそこに行っとる人には外国人も多いんで。おまえは近寄らんでも、向こうからフレンドリーに声をかけられたらどうするんじゃ」
そうだった。村瀬さんは路面電車の車掌をしているから、時間帯によってどんな人が電車に乗っているのか分かっているんだ。
「でも、そんなこと気にしてたら本当にバイトなんかできないよ」
「だから無理してせんでもええって。別に無駄遣いしとるわけでもないじゃろ」
そうなんだけど、実は村瀬さんに内緒で一つ計画していることがある。それは運転免許を取ること。自動二輪の免許を取って、村瀬さんが乗ってるような大型バイクを買いたいんだけど。
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