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振り返ってもう一度お礼を言いたいと思ったが、過剰すぎる気がして、私はそのままドアに手を伸ばした。
ドアノブはひんやりしていて、体からふわふわした気持ちが抜ける感覚がした。
今日は、矢代さんにありとあらゆる醜態を晒してしまった。泣き顔とか、愚痴とか。
それに、迷惑をかけてしまったし、もう店に来ないで欲しいと思われてしまったかもしれない。
このパン屋さん、気に入ってたんだけどな。特にカレーパン……。カレーパンと言うとまた矢代さんを思い出す。彼にも、パン屋さんに訪れなければ、多分会うこともないのだろうな。
悲しく思いながら、冷たいノブへ力を込める。……よりも先に、"何か"が私の手を上から包み込んだ。
何か、というか、矢代さんの手だった。
皮が張っていて、固くて、ほんの少し冷たい手は、緊張しているのか汗ばんでいた。
「柚希ちゃん、よかったら、また来てよ。すぐじゃなくていいから、受験、合格した後とかにさ。
また、俺のカレーパン食べて、美味しいって……言って、欲しいん、だけど」
切ない声で囁かれると、体がびくっと跳ねそうになる。信じられないぐらい皮膚の近くで吐息が触れたのも感じて、もう、目の前が真っ白になった。
「ぇ、あの、な、なんで……?」
「なんで、ってそりゃ……」
矢代さんは困ったように数秒黙ると、私の手を握る力を緩めて、そっと指先で、彼よりも一回り小さい私の手の甲を撫でた。
「――俺、柚希ちゃんのこと前から気になってた、って言ったよね?」
ドアノブを握る自分の手。それを包み込む矢代さんの手。
私の手からゆっくりと離れていきながら、指先から腕までを、まるで蛇が這うようになぞっていく。
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