(一)

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(一)

その定食屋は大隈講堂のそば、脇道にある古びたビルの二階にあった。暖簾をくぐるとカウンター席のみで、四人も入れば満席になってしまう。神棚のような棚にブラウン管のテレビがあって、決まって夕方のニュースが流れていた。講義が六限で終わる日は、いつもそこで夕飯を食べた。鯖の味噌煮定食が500円。もう長いこと値段は変えていないらしい。暖簾を誰かがくぐる気配を察すると、奥からおかみさんがくぐり戸を抜けて顔をだす。黒くつややかな髪をお団子にまとめ、真っ白な割烹着を着ている。しゃんと引かれた赤い口紅。今年、七十になるのだと自慢げに言った。 「でも、一度も白髪染めなんてしたことないのよ。お魚は健康にいいのよ。髪だって白くなんかならないわ」 メニューは定番の鯖の味噌煮定食の他に、焼き魚が何種類か。肉の定食はひとつもなかった。 「おかみさん」というより、「ママ」と呼びたい雰囲気だった。学生のお椀を持つ手が美しくないと「あら、なってないわね」とピシャリと怒られた。ニュースは選挙の街頭演説を映している。「あの子もこの子も、学生の頃は毎日うちに来てたわよ」と、テレビに映る政治家を見上げて言う。 店は夜八時には閉まる。六限の後に駆け込む私は最後の客だ。食べ終わるのを邪魔くさそうにママは待っている。けれどある時から、私がお椀をかっこんでいると、ママは首を伸ばして柱の時計を見上げるようになった。 閉店ぎりぎりの時間にやってくる学生がいた。テレビのすぐ下の席に座る。そこが定位置らしい。座るとすぐに夕刊を広げる。注文はしない。ママはいそいそと「今日はトマトでいいかしら」と声をかける。学生は新聞を広げたまま「ああ」とも「うん」ともつかない声で答える。品書きには無い定食に、小鉢が添えられたものが出てくる。特別会話をするわけではなく、学生はその盆に箸をつける。彼はいつもモノトーンのサッパリとした服装をしている。今日は白いセーター。ママは彼の箸の動きを、ただ一心に見つめているのだ。
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