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しかし本を見ながら言ったにも関わらず、今度は「アル」まで言って断念したようで、結局「アレが……」と一呼吸おいたあと星野さんの顔を見て、「ツルリだよ」と説明した。
またぎょっとした。しかも星野さんは反射的に、ツルリと言った相手の額を見上げてしまった。さいわい部長はすぐに本に目を落として、もう二度と言い間違えたりしないように、アルベロベッロを小声で繰り返している。このあたりの真面目さは、星野さんが入社した時分から変わらない。
けれどもアルベロベッロよりもむしろ、トゥルッリのほうを練習した方がいいんじゃないのか知らん、などと考えていたら、やがて電車は停止した。星野さんと村上部長は、一緒に席を立ち上がった。ワンマン電車の車内には、二人以外に誰もいない。橙色をしたドアが、つっかえながら左右に開いた。
星野さんが先に電車から降りた。すぐ後から村上部長も降りてきた。彼らの他に人影はない。テニス・シューズの靴底が、黄色い点字ブロックの上で、ぎゅうぎゅうと鳴った。その他に物音もない。まったく静かなものである。
無人駅らしきプラットホームに、星野さんと村上部長は並んで立った。目の前には先ほど車内から見えた、アポロ・チョコレートが迫っている。後ろにはおんぼろの電車が停車したままだった。
――私たちはいま正に、イタリアの名所のどまんなかへ、日本の電車で乗りつけたのである――星野さんはそう考えると妙な気分になって、発作的な笑いがこみあげてきたけれども、部長に気づかれないよう呑み込んだ。
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