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新選組 山南敬助の脱走
「私は会津公用方の広沢家にお仕えしている者です。今日は主人の使いでやって参りました。恐れ入りますが近藤局長へお取り次ぎをお願いします」
「ほう、広沢様が……。何だろうな」
稽古の監督を一時外れ、気分転換に屯所の門から顔を覗かせた彼に声を掛けてきたのは、二十歳を過ぎた位の青年でした。
「生憎と近藤さんも土方君も外出中でね。私でも良ければ話を伺いますが」
「恐れ入りますが、お名前は」
「総長の山南です」
青年は名前を聞いて驚きました。新選組の評判とは裏腹に、局長に次ぐ地位にあるはずの山南敬助があまりにも穏やかな人物に見えたからです。
以前にも街中で新選組を見かけたことが幾度かありましたが、その際に彼らが放っていた猛烈な剣気や殺気を、目の前の男からは全く感じられないのでした。
話しかける直前までの緊張は一体何だったのか。その反動で青年の顔には自然と笑みがこぼれてきます。
会津公用方からの使いといっても正式な依頼ではなく、口頭での伝言という程度のものでした。
「平間重助という男をご存知でしょうか」
しかし青年から出た一言が、穏やかだった山南の表情を一変させます。それもそのはず、それは山南の人生を左右しかねない人物の名前だったのですから。
「君、ちょっとこちらへ来たまえ」
山南は周囲に注意を払いながら、青年を屯所の外へ連れ出しました。
「一体、どういうことだ」
その声は低く静かで穏やかですが、聴く者によってはその響きだけで傷つけられそうな鋭さと冷たさを覚えます。
無防備になっていた青年の心は、いきなりその声に突き刺されたようでした。
これが新選組の本性なのだという事を感じるのと同時に、自分に与えられていた役目がただ事ではなかったのだということに、今更ながら気付いたのです。
「一昨日、主人が所用で大津へ出かけた際に、平間と思しき男を見かけたのだそうです。不審に思い、同行した者に調査を命じたそうなのですが、それによると平間は仲間を集めて何かを企んでいる可能性があるということでした」
「何を企んでいるというんだ」
「そこまではわかりかねたようです」
「なるほど、それを新選組で確認して欲しいということか」
「必要ならば、と申しておりました」
「他には何か?」
「はい、その男が大津周辺に着いたのは今から半月前の事だそうで……」
言伝をすべて受け取り終えた山南の声は、元の穏やかさを取り戻していました。
「わかりました。我々にとって大変重要な案件ですので、近藤さんには私の方からきちんと伝えておきましょう。ただ、他言は無用です。今後決してこの事を誰かに話したりはしないで下さい」
「承知しました。それではこれにて失礼いたします」
青年は一礼するとすぐに山南に背を向けて歩き出しました。平静を装ってはいるものの、青年の心は、いつ振り下ろされるかもしれない刃の下からようやく抜け出せたような虚脱感に襲われていたのです。
山南の方はというと、去って行く青年の後ろ姿を無意識に目で追っているだけでした。
今その目に映っているのは青年の後ろ姿ではなく、忘れることなどできるはずのないあの夜の情景。
当時、新選組筆頭局長だった芹沢鴨を暗殺した、あの大雨の夜の情景だったのです。
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