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このままではいけないとわかっている。
でもどうしたらよいのかわからない。
私は一体何がしたいのだろう。
私に価値なんてあるのだろうか。
でも、こんなところで死にたくない。
波が引いた後、湿ったタルトを口に運んだ。
そういえばいただきますと言うのを忘れていた。いただきますと小さく呟く。
こつ、こつ、と入口の方で足音がする。人影がちらりとカウンター席の向こうに見えた。真っ黒なエプロンの端がはためいて、目に焼き付けるように瞼を閉じた。
開いた瞬間、辺りは再び喧騒に包まれていた。先程までの静けさは嘘のように消えていた。呆然と周りを見回した後、鏡を取り出して自分の顔を確かめる。滲んだアイラインに縁どられた目が潤んで充血していた。疲労か、泣いたせいかの区別はつかない。
冷めかけた紅茶は透明な味がした。飲み終えるとテーブルの端に伏せられた伝票を裏返し、金額を確認する。ちょうどいいことに、カランカラン、とベルが鳴り響いたので腰を上げた。
ごちそうさまでした、と軽く頭を下げ、ドアに手を掛けた時、壁に飾られた古い写真に気が付いた。質素な額縁に納められた写真の中、腰に黒いエプロンを巻いた数人の人間が親しげに肩を組んで並んでいる。左から右へ視線を滑らせながら、隅の小さな走り書きが目の奥に引っ掛かった。
『1985年 夏』
伝票の筆跡を思い出しながら、きっと気のせいだろうと思い直した。ドアを引くと、待ち構えていたかのように熱風がまとわりつく。
駅はすぐそこだ。
ミエは足を踏み出した。
泣きたいとき、辛いとき、
レモンカードをしきこんだタルトと、
あんずのタルトはいかがでしょう。
貴方のご来店をお待ちしております。
喫茶店 電燈
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