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「あの店」の前で、
今、僕は立ち尽くしている。
目の前にある、木でできた取っ手を引く勇気がなかなか出ない。
僕はドアの張り紙を見つめながら、疑問を抱かずにはいられない。
…なぜ、時間というものは、無情にも過ぎ去っていくのか。
なぜ、人の人生は、こんなにも脆く儚いものなのか。
ーー思えば10年前のあの日、
僕はたまたま有休で。
だから普段は週末にしか行かないこのお気に入りのワインバーに、珍しく平日に顔を出してみたんだ。
「いらっしゃいませ。…あれ、今日は仕事お休みですか」
そういうマスターは当時まだ30代にも関わらず、どことなく貫禄があった。渋いあごひげがよく似合う。
ちょうど30になりたてだった僕は、数年の差でこんなに違いが出るものかとよく疑問に思ったものだ。
「有休が今日しかとれなかったんですよ。平日のど真ん中に休んだって、特にやることもなくて」
「そうですか。貴重な時間をうちの店に費やして頂けるなんて光栄です。一杯サービスしますよ、いい泡が入ってるんです」
「いつもありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
目の前の細長いシャンパングラスに、溢れるか溢れないかのぎりぎりまで液体が注がれていく。
このきめ細やかで繊細な泡は、いつも僕の胸を高揚させた。
グラスを持ち上げ、マスターに乾杯を告げようとしたそのとき。
「マスター、お邪魔しまっす!」
ドアが開く呼び鈴とともに舞い込んできたのは、一人の若い女性。黒髪ロングのストレートに、白いニット帽がよく似合っていた。
…ちなみに彼女は、後に僕の妻となるひとだ。
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