二章 憧憬

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 (2)  冷えた朝の空気が眠気を飛ばしていく。  学校へ向かう下り坂の途中、日野さんから昨夜の一階客間で繰り広げられた女子会とやらの様子を聞かされているのだけれど。  案の定、混沌としていたらしい。  あのノリで居間で呑んでいた爺ちゃん達から酒をせびってきた伶花さんがサクラと一緒に呑み始め、酔った二人で猫缶を開けて味を批評し始めると言う展開に突入したようである。  今朝僕らは婆ちゃんが作った朝食を僕と日野さんの二人で食べて出て来たのだけれど、みんな一向に起きてこなかったのはそう言う事か。 「自由過ぎる……」 「伶花さんも酔って饒舌だったけれど、やっぱり色々と思い出せない事はあるみたいだった」  特段何か隠しているふうな雰囲気は無かったって事か。  一人シラフだっただけに日野さんは細かい所まで注意深く見ていたようだ。 「僕も圭一さんと少し話したけど、正直まだ状況を受け止めきれないみたいだったなぁ」 「……多分、それが普通だと思う」  日野さんの所感は冷静なものだ。 「私達の時は、余計な事考える余裕とか無かったし」  それもそうか。  否応なしに状況を受け止めて身を守らなければならなかった日野さんの時と今回とでは状況が違う。  考える事も、考えない事もできる。  それはともすれば、厄介毎や責任ある判断まで先延ばしにしてしまう事でもある。 「圭一さんの事だから大丈夫だとは思うけれど」 「そうだね。伶花さん、面白いし。また女子会、したい」  ……日野さんの言うそれを果たして女子会に分類して良いのかは定かでない気もするけれど。  「それはそれとして、妖も酔っぱらうんだな……」  サクラまで深酒して爆睡していたのは何というか意外だった。 「お神酒とかあるし、お酒好きな妖は多いのかも」  ああ、なるほど。  お酒好きな神様も沢山居るのだから、同じくお酒好きな妖が居たって不思議ではないのか。 「そう言えばサクラが悪酔いした所って僕は見たこと無いな」 「……何か笑いながらずっと喋ってたよ」  ああ~……そっちのタイプか。 「昔の話とかも、色々」 「アイツがここに来る前の話? それはちょっと聞いてみたいなあ」  アイツ母さんの事も何か知ってるみたいだし、酒の勢いで喋ってくれるなら呑ませてみる作戦もとれるかもしれない。 「明治になったばっかりの頃に千駄ヶ谷の植木屋さんの台所に食べ物をくすねに行ったら庭先で痩せたお侍さんに斬りかかられて逃げ回った話とか」 「昔過ぎるでしょ」 「最近の話で上がったのは……」  日野さんはそう言った後しばらく何かを考える素振りをして、 「面白寝言セレクション」 「え」 「朝霧君の、面白寝言セレクション」 「待って」 「……ふふふ」  引き攣った僕の顔をチラリと見て日野さんは薄く笑い、足取りを速めて坂を下りていく。 「日野さん待って、ねえ」  追いかける僕の様子を見て、日野さんは楽しそうに続けた。 「私が知ってる朝霧君の洗面所独り言セレクションに勝るとも劣らない、傑作揃いだった」 「あんのバカ猫ーッ!」  テストまで二週間と言う事もありしばらく部活が無い期間に突入したので、図書室で日野さんにテスト範囲の勉強を見て貰っているのだけれど。  日野さんは僕の手が止まっている個所の要点を的確に述べながら、何やら本棚から持ってきた本に目を通している。 「ねぇ日野さん」 「?」 「今読んでるの、何の本?」  僕が覗き込もうとすると、持ち上げて表紙を見せてくれた。 「……こんじゃく……がず……つづき? んん?」 「今昔画図続百鬼(こんじゃくがずぞくひゃっき)の解説本」 「ええと……つまり、妖怪辞典?」 「妖怪辞典はゲゲゲの漫画の人。こっちは江戸時代の鳥山石燕」  全然時代が違った。 「もし幽霊じゃないとしたらなら何か伶花さん現状に繋がるヒントが無いかなと思って」 「でも二十年前まで生きていた人の妖……なんてあり得るのかな」 「朝霧君」  急に真顔になって身を乗り出して来る。 「え――は、はい」  もしや気分を害してしまう発言だっただろうか。  日野さんの右手が僕の顔の前まで来て下を向き、ノートに書いた計算式を指差した。 「ここ、虚数iの二乗忘れてる」 「……すみません」  むう……。  教科書を睨んで唸る。 「だいたい虚数って誰が引っ張って来たんだ……世の中に貢献してるのか、虚数」 「実際に具体的な大きさで説明できないものを説明するために作られた想像上の数。不可解な現象に想像上の理由をつけて説明した怪異・伝承。アプローチの方法としては、ちょっと似てる」  思いのほか理にかなった返答が返って来たので僕は舌を巻くしかない。 「妖怪・虚数(うつろかず)」 「嫌すぎる……」  妖怪ポストに手紙を出して助けを求めたいくらいだ。  まあしかし確かに、自分の持ち合わせているだけの知識で理解できていない事をありえないと言ってしまったら妖達の世界そのものを否定するようなものだ。  自宅で猫又を養っている身の割に頭の固い自分が情けない。 「それで、何かヒントになりそうな記述はあった?」 「……まだ、何とも」  日野さんは首を振り、本を僕の前に開いてパラパラとページをめくって見せた。 「例えばこの雨の巻に載ってる玉藻前は、狐が美人に化けて宮中にまで入り込んだりするって書いてある」 「狐が化けるってのは、昔話でもよくあるね」 「九尾狐とか、もっと遡れば中国の伝奇とかにも出てくるみたい」  ああ、何か漫画で見たことあるぞ。 「他の本に載ってた隠神刑部みたいに狸も人に化ける。勿論サクラみたいな猫又もそう」  動物の物の怪が人に化ける話はあったし細かく見て行けば枚挙に暇がないようだ。  けれど、それでは腑に堕ちない点がいくつかある。  妖が化けるにしたって、元になる見本がどこにもないのだ。  見た目も当然そうだし、二十年も前に亡くなった人の性格・人格なんかの所謂パーソナルデータに関する部分は本来圭一さんの記憶の中にしかないはずである。 「紹介される前に自分から名前を名乗った事とか、性格・喋り方なんかを見ても圭一さんが本当に本人だとしか思えないって感じるような化け方をする妖って言うのが居るのかなあ」  以前サクラが日野さんそっくりに化けて見せた事があったけれど中身は完全にサクラだったし、その姿で猫缶を食べようとしたのを止めた事がある。 「私はできれば、本当に伶花さん本人の幽霊であってくれたらいいなと思う」 「幽霊が実体化するのはサクラからしても考えにくいって言っていたけど……」 「そこは、ほら。……色々あって」  ……理論派に見えて日野さんも肝心な所がパワープレイだ。 「でも、まあ」 「……?」 「幽霊でも妖でも、圭一さんが出す結論は変わらないと思うよ。きっと圭一さんは伶花さんに手を差し伸べる」  陽の気に満ちた鵜野森神社の敷地内で活動できること自体が悪性の妖の類でない証らしいので、そうなれば素性はどうあれ他に行く当てのない伶花さんを放り出す理由は我が家にもない。 「だから圭一さんと伶花さんが笑って過ごせるように、僕らにやれることがあれば何でも手を貸せばいいんだと思うよ」  椅子に寄りかかって背筋を伸ばしながら僕が言うと、日野さんはクスリと笑って言った。 「朝霧君らしいね」 「それより今の僕には目の前の数Ⅱの方が難題です」  日野さんの助力を得ながらの期末妖怪・虚数との戦いは、その後小一時間続いたのであった。
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