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圭一さん達も一緒に夕食をまた我が家で食べようと言う事になったので女性陣には準備の為に一足先に帰宅して貰い、僕は圭一さんの閉店作業を手伝うためにアイレンに残っていたのだけれど。
先程の歌を聴いて何か思う所があったのか、フロアのモップ掛けをしている僕に食器を拭き上げながら圭一さんがポツリポツリと話し始めた。
「歌手……志望……ですか?」
「そう。僕の知る新堂伶花と言う女性はね、ジャズ歌手を志していた人だったんだヨ」
確かにそれならばさっき見せた歌唱力にも合点がいく。
素人のちょっとカラオケが上手いとかそんなレベルじゃない事くらいは、僕にもわかる。
「当時の彼女は南鵜野森町で一人暮らしをしていてね。日中働きながら、夜は時折……当時駅前にあったジャズバーで歌っていたんだヨ」
「駅前……あの辺にジャズバーなんてあったんですか?」
「ウン、僕も当時何度か足を運んだ事は有る」
しょっちゅう行く駅前だけれど、お酒が出るお店なんて居酒屋かファミレスくらいしか無かった気がする。
「あの頃はまだバブル崩壊前で日本中景気も良かったからネ。鵜野森みたいな地方の町だって、それなりに羽振りの良い時期があったもんサ」
時代と共に姿を消したと言う事だろうか。
「そんな彼女がこの店を訪れたのは本当に偶々、鵜野森神社に散歩がてらお参りに行った帰りだったらしいんけど。僕は当時から趣味程度とは言え、ジャズやブルースなんかのLP……ああ、LPって言ってもわかんないかな。CDじゃなくて昔のアナログのやつネ」
「あ、いえ。音楽室で見た事は有ります」
「ああ……鵜野森高なら古い学校だから確かに残ってるかもしれないネ。……まあともあれ、僕は当時からそういうのを買い集めて店でよくかけてたんだヨ。それでいたくここを気に入ってくれたみたいでサ」
この前話していた、店の外を歩いていた伶花さんを見掛けて一目惚れした後の話なんだろう。
「働きながら歌のレッスンも受けていた様だから忙しそうだったけれど、頻繁に足を運んでくれるようになったのが嬉しくてねェ。ハハ」
言って圭一さんは気恥ずかしそうにポリポリと頬を掻く。
……圭一さんの若い頃って多分、今の感じで白髪を無くしてそのまま若くした様な感じだったんだろうな。
歳を経てもあまり印象が変わらないタイプの人だ。
だからと言うわけではないのだけれど、昔の姿のままの伶花さんと並んでもミスマッチと言う気はあまりしない。
「生前の伶花さんは歌手を目指していた人だったんでしょう? さっきの歌を聴いたらもう本物か偽物かなんて疑う余地も無いわけじゃ……ない、です、か、っと」
僕は水に浸したモップを絞りながら圭一さんの方を見る。
圭一さんはポケットから取り出した煙草に火をつけると、一服してから細く立ち昇る煙に目をやったまま、しばらくそれをぼうっと眺めていた。
「……圭一さん?」
「ああ、ウン。……そうだネ。確かに彼女は出会った頃の新堂伶花さんそのものだと思うヨ」
「でしょう?」
「カラッとした性格に屈託ない笑顔。僕が焦がれ、惹かれた彼女そのものだ」
伶花さんは圭一さんを全面的に信頼して頼っているのだし、圭一さんが今も変わらず伶花さんへの想いを持ち続けているのならば何も不安要素は無いわけで。
伶花さんの霊気の身体に関して不確定な要素はまあ在るにしても、幸いにして専門のサクラや理解ある婆ちゃんもいるのだ。
知らない土地で暮らすならともかく、ここに滞在するのであれば当面は大丈夫なのではないだろうか。
「……夢路君」
「何ですか? お惚気なら後で皆で聞きますから、早く片付けしちゃいましょうよ」
「今居る彼女が出会った頃の彼女なら……亡くなった時頃の彼女は、どこに行ったんだろうネ」
「――え?」
モップをかけていた僕は思わず手を止めてしまった。
亡くなった時の伶花さん?
それって、今居る伶花さんとは違うのか?
「それは……どういう事ですか?」
「あの姿は出会った頃のものだ。僕が良く知る、新堂伶花さんの姿に間違いない。……けれど、亡くなったのは本来もっと後なんだよ」
「…………」
「ああ、いや別に今の彼女が偽物だとか……そういうつもりじゃあないんだ。彼女の歌声は僕自身が一番憶えている。あの歌はおいそれと真似できるものじゃない」
そうだ。
それに、悪意のある存在でもないとサクラも言っていたじゃないか。
「色々記憶が曖昧だって話でしたし、本人もわかってない事情があるのかもしれないですよ」
「うん、そうだネ。いやゴメンゴメン。今身寄りのない彼女の力になるべき僕が不安を煽るような事を言ってしまったネ。さ、片付けをさっさと済ませてしまおうか。お腹空いて来ちゃったしネ」
少しバツが悪そうに苦笑して、圭一さんはカウンターの隅に置かれた鉢植えに霧吹きで水をやる。
どこかひっかかりを残している僕の心情などとは裏腹に、圭一さんから水を貰った花は生命力に溢れ、どこか嬉しそうにも見えた。
「おー! 学生諸君、真面目にべんきょーしとるなーァえらいえらぁい!」
夕食の後、僕の部屋で日野さんとテスト勉強をしている所に一升瓶片手にすっかり出来上がった伶花さんが乱入して来た。
「……下でサクラと呑んでたんじゃないんですか?」
「サックラちゃんならもうへべれけだからぁ、学生二人は何してるかなーって思って遊びに来たのよぉ」
サクラが潰されるとは……。
圭一さんも明日の仕込みがあると言って帰ってしまったし、最早防壁となる存在が誰も居ない。
これはもう今日は勉強は諦めた方がいいかもしれないなと、僕は苦笑して日野さんに目配せをした。
未成年で伶花さんのお酒に付き合うわけにもいかないし、ここで深酒されるのも非常にアレなので日野さんが下から三人分のお茶を淹れてきてくれた。
湯呑から湯気と立ち昇る香りに、心が落ち着いて行く。
「温まるなあ」
「ほうじ茶はピラジンて言う成分が、リラックス効果高いんだって」
「おー……咲ちゃん詳しいね」
感心した様子で伶花さん。
ずずっと一口ほうじ茶を啜ると、
「沁みるぅー」
……一々リアクションがおじさんくさいんだよなこの人は。
憂いを帯びた歌声を見せた人と同じ人物だとは思えない程である。
「あーいい気分~」
そう言って勝手にベッドに身を投げ出してゴロゴロし始める。
「……自由過ぎるでしょ」
「カタい事言わないのー」
こうなった酔っ払いには勝てそうにない。
僕は溜息一つついてから、夕方圭一さんから聞いた話について少し気になった点について聞いてみる事にした。
「そう言えば夕方圭一さんに聞いたんですけれど、伶花さんて歌手志望だったんですよね」
「……どうりで上手いと思った」
「んー? んふふー、まあねー、そーうでーすよー」
「駅前にあったバーで時々歌ってたって、圭一さんから聞きました」
「いやーぁ、改めて言われると照れちゃうねぇ」
酔いの所為もあるんだろう。
饒舌になっている伶花さんになら、もう一歩踏み込んで聞いても大丈夫な気がした。
「その後、歌手にはなったんですか?」
日野さんが少し驚いた顔で僕の方を見る。
「んーそりゃあ……えっとぉ……あれ?」
「…………」
「歌手に……ううん?」
天井を見上げた状態で、伶花さんの返答は止まってしまった。
「どう……だったかなぁ……ごめん、やっぱり記憶があやふやみたい」
「あ、いえ。今思い出せないなら無理しないでいいですよ。そのうち思い出せるかもしれないですし」
「……うん。そだね。あはは」
笑いつつもどことなく気まずかったのか伶花さんは掛布団に蓑虫みたいにくるまってしまった。
しばらく二人して蓑虫状態で背を向けた伶花さんの様子を見ていたが、一向に動かないので日野さんが身を乗り出して伶花さんの顔を覗き込む。
「……寝てる」
「ええ……」
寝つきがいいにもほどがある。
まあ、気を悪くしてしまっていたりするよりはマシだけれど。
「でも朝霧君、どうしてあんな事聞いたの?」
座り直した日野さんがお茶を一口やってから疑問を口にした。
「うーん……」
まだ確証に足る根拠が殆ど無い事を安易に話すのも気が咎めるのだけれど、日野さんなら僕とはまた違った視点で考えられるかもしれないしなあ。
一瞬迷ったものの、僕は日野さんに朧げな自身の考えを話す事にする。
「圭一さんがさ、今の伶花さんは間違いなく出会った頃の伶花さんだって言ってたんだ」
「うん」
「それってつまり、さ。亡くなった頃の伶花さんとは別人て事なんじゃないかな……って」
「……?」
日野さんは小首を傾げる。
頭上に特大の疑問符が浮いているような表情である。
まあ、同一人物と言った矢先に別人と言う話をしているので無理からぬ反応だとは思う。
「僕も上手い説明が中々思いつかないんだけど……亡くなった頃の記憶が無い……っていうより、そもそも亡くなったって言う経験をしていない様な……そんな気がするんだよ。容姿にしたって、圭一さんと知り合って十年以上経過してから亡くなってるなら、今の姿は若すぎると思わない?」
「……圭一さんと出会った頃の伶花さんが今居る伶花さん……タイムスリップみたいな話?」
サクラが伶花さんを霊的なモノとして扱っている前提が無ければ或いはとも考えたろうけれど。
「ううーん……ごめん、やっぱりまだ頭の中で考えがまとまらないや」
オカルトとSFが混ぜこぜになってしまいそうだ。
圭一さんの記憶の向こう、遠い憧憬の一頁を切り取って来たような伶花さんと言う女性。
彼女の人物像は、快活な見た目とは裏腹に未だその輪郭さえもどこか朧気なままだ。
「私は……」
僕が眉間に皺を寄せて考え込んでいると、日野さんがお茶を湯呑に注ぎ足しながらポツリと呟いた。
「私は、伶花さんが圭一さんを慕う気持ちが本物なら。……圭一さんがそこに手を伸ばすなら……力になりたい……って思う。今の伶花さんがどんな素性であっても」
人と関わる事を極端に避けていた頃の日野さんを知っているだけに、その言葉には彼女自身の祈りとも言うべき強い意思が込められているように感じた。
「……そうだね。僕もそれは応援したいと思う」
「うん」
僕と日野さんは小さく笑い合った後、中断していたテスト勉強を再開する事にしたのだった。
――それはそれとして。
「これ……大分豪快に寝てるけど……僕寝る場所どうすんのさ」
「……コタツ?」
「ええぇ……」
寝床を追われて一階のコタツで夜を明かした僕は、翌日終始気怠さに悩まされる事になったのである。
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