一章 面影

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一章 面影

 (1)  箸でその身をほぐすと、煮汁を吸った白身から食欲を刺激する香りが立ち昇って来る。  御飯の上で白髪ねぎと一緒にきらきらと光って、口へ運ぶ前から頬が緩んでしまうほどだった。 「美味しい……!」  生姜の風味の効いた煮汁に乗って、幸せが沁みわたるようだ。  最近冷えて来たし、煮魚は心身ともに温まるなあ。 「今日はいいのが入ったって言うから買って来て良かったわねえ」 「……うむ。もうヒラメも旨い時期だからな」  爺ちゃんと婆ちゃんも煮付けにご満悦の表情だ。 「この先寒くなれば脂ののった魚も種類が豊富になる故、私の食生活もバラ色である」  偉そうな口調でガッツリ人間一人分の煮付けにかぶりついている黒猫が僕の目の前に居るのだけれど、コイツは勿論普通の猫ではない。 「百五十年も生きて普通の猫には食せぬ味付けも堪能できるようになったのが霊獣として一番の役得であるな」  猫又・サクラ。  本人(?)曰く霊獣仙狸と言うのが厳密な分類らしく堕ちた化け猫と一緒にされるのは不本意である、との事。  日野さんが我が家に出入りするようになったきっかけである事件も、元を辿れば夏の終わりにコイツと出会った出来事から始まったものだ。  その際にまあ色々あって本来持っていた力の大部分を失い、神社に集まる祈りや願いと言った信仰の力で回復を図りつつ日々ぐうたら過ごしている。 「お前ほんとよく食うな……」 「食を楽しまぬのは損であるぞご主人」 「三食は僕だって楽しみにしてるよ。お前はそれ以外にも一日中猫缶やら商店街で貰って来た小魚やら食べまくってるだろう」  僕のお財布事情はサクラの猫缶消費によるエンゲル係数の増大によって非常に悩ましい状況が続いている。  アルバイトもしようかと思った事もあったけれど、一時期離れていた部活も再開した事でそう言うわけにも行かなくなった現状もあって難しい所だ。 「朝霧君も、部活再開してから少し食べる量増えたと思う」  僕とサクラのやり取りを眺めて、日野さんが言う。 「……え、食べすぎ……かな?」 「ううん。この間までが運動部の割に食べなさすぎだったと思う」 「最近はやっぱり部活のおかげで凄くお腹が減るようになったのは間違いないかなあ。余計に美味しく感じる」 「……おかわり、あるよ」 「あ、じゃあ貰っていい?」 「わかった」  僕から茶碗を受け取った日野さんは何だか軽い足取りで台所へ入って行った。 「ね、夢路さん」  婆ちゃんが何だか楽しそうに僕の肩を叩いて来る。 「煮付け、会心の出来だと思わない?」 「え? ……うん。凄い美味しいよ」 「咲さん最近お料理どんどん上手になってるのよ。今日のヒラメだってちゃんと捌いて下拵えまで出来るようになって」 「全部日野さんが作ったの?」 「ふふ、そうね。今咲さん機嫌よかったでしょう? 私はお惣菜を少しだけ、ね」  日野さん凄いな。僕なんて鰯だってまともに捌けないぞ。 「……ひじき、美味いな」 「あらどうも、ふふふ」  ボソリと呟く爺ちゃんをつついて笑う婆ちゃん。  惚気か。惚気なのか。 「お待ち」  定食屋みたいな台詞で台所から戻って来た日野さんが僕の前に茶碗を持って―― 「…………」  茶碗から白米が垂直にそびえ立っている……。 「えっと……」 「沢山、あるよ」  沢山とかそう言う次元の話じゃない。 「…………」 「…………」  き……期待されている――この超特盛りを平らげる事を。  サクラの方を見ると『満足である』などと言い残してそそくさと居間を出て行ってしまった。  婆ちゃんは婆ちゃんで楽しそうにこっちを眺めているし、爺ちゃんでさえ新聞に目を落としつつも小さく肩が震えているのでひょっとすると笑いを堪えている節がある。  …………最早後退は許されない。  僕は腹を括って再び箸を手にした。  夕食も終わり、食べ過ぎで僕が呻いている横で日野さん達が夕方のアイレンでの話をし始めていた。 「圭一さんの若い頃?」 「昔の恋愛の話になって」 「あらあら」 「……若いモン相手に何を話しとるんじゃ、あの男は」  爺ちゃんは渋い顔でお茶を啜っていたけれど、 「洋子さんと宗一郎さんが新婚の頃で、ラブラブだったと」  日野さんの言葉に爺ちゃんが正面の僕に向かってお茶を噴き出した。 「……社殿へ行って来る」  爺ちゃんは立ち上がると、手拭いを僕に放り投げて居間から出て行ってしまった。 「理不尽過ぎる」 「宗一郎さんたら照れてるのね」 「可愛い……」 「人の顔にお茶噴き出しておいて可愛いわけないでしょ」  僕は手拭いで顔を拭いた後、裏返してテーブルを一拭きするとやはりお腹が苦しいのでゴロンと横になった。  ああ、この時期のコタツの引力は強力だなあ。 「けどその頃の圭一さんの恋愛話って言ったら……」  頬に人差し指を当てて婆ちゃんは何やら記憶を手繰り寄せているようだ。 「何か店に爺ちゃんと婆ちゃんが居る時に、表を通りかかったのを見掛けたのがきっかけだったとか何とか言ってたけれど」 「ああ、じゃあやっぱりそうだわ」  どうやら心当たりがあるらしい。 「詳しく」  日野さんが真顔でまた身を乗り出している。 「うーん。でも圭一さん本人からその先を聞けていないのなら、私があんまり喋っちゃうのもね」 「……残念」  まあ確かにプライベートな話だからなあ。 「でも圭一さん、夕方お店でその話をし始めた時にお店の外を通り過ぎた女性を見て、血相変えて店の外に飛び出したんです」 「そうなの?」 「うん。結局その人はもう見当たらなかったんだけど。その後もう心ここに在らずみたいな感じでさ」 「話していた人のそっくりさんでも見たのかなって、朝霧君と話していたんですけれど」 「……そう。圭一さん、やっぱり何年経っても忘れられないのねぇ」  婆ちゃんは何だか一人でしみじみし始めてしまった。 「やっぱり、そこを詳しく」  日野さんはやはり興味津々な様子でまた婆ちゃんに詰め寄っていたけれど、 「ふふ、じゃあ咲さんのお話も聞かせてもらいながらにしましょうか」  ……などと婆ちゃんが言いだすと、日野さんが急に座布団で寝ている僕の頭の上からボスンと蓋をしてきた。 「うわっ、ちょっと? いきなり何?」  いきなり視界が真っ暗になってバタバタもがいてみたけれど、 「何でもない。何でもない」  日野さんが何だか必死で押え付けてくる。 「あらあら」  可笑しそうに笑う婆ちゃんを余所に、コタツの熱と日野さんの座布団抑え込みによって僕はすっかりのぼせてしまうのだった。  都心から離れた鵜野森町の星空は遠く地平線との境目の方まで続いていて、頭上にはもう冬の大三角も瞬いているのを見る事が出来る。  国道からも遠い鵜野森神社には車の騒音も届かない。  星と月の明かりだけが境内を照らす、静かな夜だ。  部屋着の上からコートを羽織ってベランダから星空を見上げていると、後ろのガラス戸がカラカラと音を立てた。 「……居た」  マグカップを二つ持った寝間着の日野さんがベランダに出てくる。  夏の事件の時から日野さんは我が家の客間をちょくちょく使うようになっていたからそれ自体にはもう驚かない様になっていたけれど、 「流石に寒いんじゃない?」 「星が凄い……でも、寒い」  言わんこっちゃない。  僕は自分で着ていたコートを日野さんの背中にかけてから一旦自分の部屋へ行き、制服の上着を羽織って再度ベランダに出る。 「……ヘンな格好」  上だけ制服の上着を羽織った僕を見て、持っていたマグカップの一つを渡して来る。  カップに入ったココアからは甘い香りと湯気が立ち上っていた。 「仕方ないでしょ。コート日野さんが着てるんだし」 「まあ、そうだね」  マグカップを受け取りながら、寒さで少し赤くなった日野さんの顔にドキッとして僕は思わず少し目を逸らしてしまう。 「もうじき年末かぁ」 「うん」 「何だか後半から色々あったなぁ」 「朝霧君のせいだね」 「え」 「冗談」  ココアをちびちび啜りつつ、星を見上げて日野さんが言う。 「朝霧君達のおかげ。サクラも、宗一郎さんも、洋子さんも。商店街の人達も」 「…………」 「あのままだったら、きっとこの空も綺麗だなんて感じなかった」  夏の終わり。  過去の忌まわしい因縁に絡めとられた日野さんに引き寄せられたとある怪異と僕らは対峙した。  サクラを含め皆の助力、そして最終的には日野さん自身がその因縁を乗り越える事で、それまで何年も止まったままだった彼女の心は動きを取り戻したんだ。  でも、本当はそれで終わりじゃない。 「これからだよ」 「……?」  僕も日野さんに倣って空に目を向けながら言う。 「これから沢山綺麗な物を見て、楽しい場所に遊びに行って、美味しいものを食べて。沢山笑っていいんだ」 「……うん」  失った時間の埋め合わせ。  人に意思を伝え、人の意志を汲み、時には衝突し、時に支え合う。  今の日野さんに必要なのは、きっとそう言う事を沢山経験する事だ。 「私も皆と、もっと笑いたい」  視線を下ろした日野さんが、僕の方を見て言う。 「色んな人に助けて貰ったから。色んな人の力になって、それで一緒に笑えたらいいなって思う」 「きっと、そうなれるよ。……少なくとも僕はもう、充分助けて貰ってる」 「……そうなの?」 「日野さんの件に関わらなかったら、僕もずっと前を向けなかったと思う」  「…………」 「だから、きっと大丈夫。目の前の困難から目を逸らしたりしないでいられると思う」 「差し当たっては、期末テスト」 「それからは目を逸らしたいな……」  藪蛇だった。 「……と言うか、僕今ちょっといい話してた気がするんだけど台無しだよね」 「不安な科目、ある?」 「物理と数学をお願いします」  僕が頭を下げると、 「じゃあ、来週からテスト勉強だね」  日野さんはまたココアを啜り、星明りの下で小さく微笑んだ。
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