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三章 覚(サトリ)
(1)
小さく浮かぶ凍雲が薄く暮れる空に染められていく。
首元から冷えた空気が入り込んでくるので、コートを羽織っていても少し強めの風が吹くと結構な寒さを感じて思わず身震いしてしまう。
来週頭からはもう期末テストなので、僕らはテスト勉強の追い込み中だ。
「うう、しかし冷えるなあ」
「……マフラーくらい、してくれば良かったのに」
寒風に首を窄めている僕とは対照的に、日野さんはコートに手袋・更にはマフラー完全装備でモコモコ状態である。
「二度寝が気持ちよくて寝坊して慌てて出てきたからなぁ……」
「自業自得」
「……はい」
仰る通りでぐうの音も出ない。
「春が待ち遠しい……」
「…………」
「……な、何?」
「何でもない。……それより、あれから伶花さん、どう?」
「うーん。どう、と言われても……」
伶花さんが我が家から圭一さんの所へ移って五日になる。
僕もテスト前と言う事もあり毎日様子を見に行けているわけではないので何から何まで把握しているわけではないけれど、伶花さんの経過観察と猫缶買いたさでの小遣い稼ぎを兼ねてバイトの真似事を始めたサクラの話を聞いている限りでは、特段の変化は無いように思える。
今の伶花さんがサクラ達の様な妖と同じ原理で身体を維持しているのであれば、調子が万全になれば自然と霊気を集めて身体を維持する事ができると言う話だけれど、そのあたりが現状どうなっているのかはサクラにしかわからない話である。
「相変わらずあの調子みたいだよ。アイレンの集客を伸ばすためにサクラと二人してあれこれ思案してるみたい」
「……大丈夫かな」
「うーん。まあ、楽しんでるならいいとは思うけど。気になる?」
「勉強する前に、ちょっと寄って行きたいかも」
「そうだね。なら、そうしようか」
邪推するより現場一回である。
立ち寄ったら立ち寄ったでグダグダになりそうな気もするけれど。
「お帰りなさいませなのであるご主……おや、本物のご主人達であったか」
「……何だ、その格好は」
店に入って早々に頭の痛くなる光景が目に入ってきた。
「うむ。伶花の新たな『経営戦略』と言うやつであるな」
自慢げに胸を張るサクラ。
僕はジト目でカウンターの伶花さんを睨んだけれど、
「どうよ夢路君。サクラちゃん、可愛いでしょ」
悪びれる様子は微塵もなく、サクラを着せ替え人形にして楽しんでいるようにしか思えない。
「こんなの着させてアイレンで何をやる気ですか……」
フリフリの衣装とかどこから持って来たんだ。
「いやー昔じゃ考えられなかったけどインターネットって言うの? 便利ねえ。宣伝だってSNS? チラシなんて撒かなくても御覧の通りよ?」
言われて店内を見渡すと、町内では見かけない層の客が何人も入っている。
……いいのか、これは。
「フフン、ご主人も私の普段見せない貴重で可憐な姿を見て褒め称えて良いのである」
「お前伶花さんに集客のダシにされてるの気付けよな……。日野さんも何か言ってやって――」
「激写」
肩を落として溜息混じりに日野さんの方に目を向けると、何かスイッチが入ったらしい彼女はノリノリでポーズを取るサクラをスマホのカメラで撮り始めていた。
「……いやあ、何というか、すまないネ」
盛り上がっている三人を後目に僕がカウンターに座って項垂れると、苦笑いの圭一さんがおしぼりを渡してくれる。
これで圭一さんまであの空気に毒されていたらどうしようかと思っていたけれど、杞憂だった様で少し安堵した。
「あの路線でお客さん釣ったって続かないですよきっと」
「はは……かもしれないネ」
だいたいからして、アイレンにああいう騒がしいノリはマッチしないと思うのだけれど。
「伶花さんて、結構子供っぽいとこありますよね」
「うん、まあ、ネ」
僕の言葉に圭一さんも苦笑混じりで頷いたが、
「あら二人とも、それはちょっと聞き捨てならないわね」
地獄耳なのか僕と圭一さんが小声で話していたのがしっかり聞こえていたらしい。
「ああ、二人からそんな風に思われていたなんてショックだわ……!」
わざとらしくよろめきながら崩れ落ちる伶花さん。
「特に夢路君、年上の魅力もわからないと大人になってから恋愛に苦労……ああ、でも夢路君は咲ちゃんがいるから大丈夫なのね」
「どうしてそこで僕らの話になるんですか……。僕は日野さんにぃぃいたいた痛い痛い!」
いつの間にか隣に座り、頬を赤くした日野さんに思い切り腕を抓られた。
「朝霧君は墓穴掘るから、喋っちゃ駄目」
「……はい」
「あっはっは。学生は微笑ましくていいわやっぱり」
僕らのやり取りを見て伶花さんはまたカラカラと笑う。
「で、ご注文は?」
「私は、陰干し珈琲を」
「……カ……カフェオレで」
「……っ、毎度あり」
……今僕のカフェオレで伶花さんまたちょっと噴き出したぞ。
くそう、人をお子様だと思ってこの人は……。
しばらくするとお客さんも捌けて、店内は普段の静かな空気を取り戻していた。
サクラも労働から解放されて、カウンターの奥で、飾ってある鉢植えの花を眺めながら呑気にお茶を啜っている。
「……伶花さんの僕らくらいの頃って、どんな感じだったんです? 高校の頃から大人の魅力とやらに溢れていたんですか」
先程子供扱いされたのがちょっと悔しくて、僕は伶花さんにそんな話を振ってみる事にした。
「なぁに、さっきの話の続き?」
ニヤリとする伶花さん。
「私も聞きたいかも」
日野さんも興味津々のようだ。
「お、僕も伶花さん自身の昔話は殆ど聞いたことがなかったから聞きたいねェ」
意外だな、圭一さんまで知らないのか。
「仕方ないなぁ。みんながそこまで気になるなら話してあげようじゃないの。私の居た高校は――」
得意気に話を始めるものだと思っていた僕らだったけれど。
「――高校、は――」
「…………?」
そこで、言葉が止まってしまう。
「あれ……?」
自信に満ちた笑顔だったものが、徐々に苦笑へと変わっていく。
「私、高校……どこ通ってたんだっけ……」
「伶花さん……あの、思い出せないうちは無理に思い出そうとしなくていいですから……」
ちょっとタイミング的によくない話題だったかと、いたたまれない気分になってしまった僕はそこで話を区切ろうとしたけれど、伶花さんは慌てて僕を制した。
「いやいやいやいや、だって華の女子高校生時代すっぱり抜け落ちるなんて流石に自分でも笑っちゃうよ? ちょっと待ってね、ちょっと」
「…………」
「伶花さん」
隣の日野さんが口を開く。
「……何、かな? 咲ちゃん」
「それより前の事は、憶えていますか?」
「それより、前……」
「中学校や、小学校の事は」
「…………やっぱりちょっと、思い出せないや」
「いえ……ご無理はなさらずに」
あったはずの過去が。
あるはずの過去が。
振り返ったら見えなくなっている心境とは、如何ばかりだろうか。
「すみません、伶花さん。変な事聞いてしまって」
「ううん、こっちこそゴメンね。何か、微妙な空気にしちゃってさ。……圭一君、私先に上がらせてもらっていいかな……」
「ん? ああ……今日はもうお客さんも捌けたし、構わないヨ。……ゆっくり休むといい」
「うん、ありがと。二人ともごめんね。また今度」
「あ――いえ……」
バツが悪そうな表情のまま、伶花さんは奥に引っ込んでしまった。
「やっぱり伶花さん、記憶……欠けたままなんですね」
伶花さんが消えて行ったカウンターの奥に目をやったまま日野さんがポツリと呟くと。
「それでも」
圭一さんは――
「それでも、彼女がここに居てくれるなら……僕は今のままで構わないサ」
白髪混じりの髪をくしゃっとやり、自分で淹れたコーヒーをぐいっと飲み干した。
「圭一さんはああ言ってたけれど、伶花さんの記憶……元に戻るといいね」
「うん」
アイレンからの帰り道、家へ向かう道の途中で僕らがそんな事を言っていると、
「さて、それはどうであろうな」
黙って僕らの前を歩いていたサクラが口を開いた。
「思い出すと言う事は忘れている事があると言う事。しかし初めからそれが無いのだとすれば、思い出すも何もないのである」
「どういう事?」
「二人はそもそも伶花の事を故人の霊だと信じたいようであるが……。前にも申した通り、余程霊格の高い人間でもない限り死人がその魂を長く現世に留め置く事は出来ぬのである。例外として怨霊となって一念に突き動かされるまま呪詛を撒き続ける事もあるが……そこに最早人格は無く、恨みの概念だけが妖化するようなもの。あのような器用な振る舞いをする事はできぬ」
淡々と語られる言葉が、冷えた空気を伝って耳に刺さる。
サクラはこちらを振り向かずに歩いて行くので、その表情を窺う事はできなかった。
境内へ向かう階段に、サクラの履いている下駄の音が響く。
「じゃあ……サクラはあの伶花さんは一体何だって言いたいんだよ」
「私は当初から妖であろうと申しているのである。霊気の質からして悪意のある存在ではない。しかしずっと昔に死んだ当人の霊である可能性は低かろうなのである」
「でも、伶花さんの歌は紛れもない本物だって圭一さんも言っていたんだぞ? 確かに記憶が色々欠けているみたいだけれど、圭一さんと出会った頃の思い出話だって結構していたじゃないか」
「そのあたりは私にもまだ真相はわからぬが……圭一殿と出会う以前の記憶を持たず、またその後せいぜい数年以降の記憶も持ち合わせていない。まるで――」
サクラが立ち止まり静寂の星空を見上げる。
「――まるで圭一殿と出会った頃の新堂伶花という人間の記録だけを写し絵にしたような、そんな印象を受けるのである」
吐く息は白く立ち昇り、すぐに霧散して行った。
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