第11章

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「当時は今以上にシングルマザーには厳しい時代だったけど、母さんを説き伏せるのは、そりゃあ大変だった。でもまぁ、周囲の説得もあって、何とか結婚にこぎつけて。無事にお前が産まれたときには、嬉しい以上に緊張したよ。お前は親友からの、大事な預かり物だから、何をしてでも幸せに育ててやりたいと思った」 やさしく笑いかけてくれる父に合わせる顔がないと、これまでずっと思っていた。 その苦しみを、全部ひとりで抱え込まなければいけないのだと思い込んでいたのは、裕幸の独りよがりでしかなかったのか。 「主治医の…多分、久我自身の予想も裏切って、あいつが亡くなったのは、それから十年後のことだった。本当は、」 父はそこで初めて言いづらそうに口ごもった。わずかにうつむき、恥じるように小声で続ける。 「……本当は、お前も葬式に連れて行くべきか、母さんと悩んだ。だけど、久我に裕幸のことは興味ないし、俺たちのこどもとして育ててやってくれ、ってさんざん言われてたから。連れて行かなかった。だけどそれは全部…」 それまで淡々と語ってきた口調が、隠しようもなく揺らめいた。 膝の上に置かれた拳が、きつく握り締められている。 「四十九日を過ぎてから、遺品を見せてもらったんだ。久我の日記があった。誰にも見せずに捨てて欲しいと言われていたらしいんだが、特別に読ませてもらった。日記の中に所々、見舞いに行ったときに話した、お前のことが書いてあって」 その瞬間、裕幸の脳裏を過ぎったのは、漂白された部屋で物々しい医療機器と機械音に囲まれた男の影だった。 横たわったからだはいっそ恐怖を感じるほどに薄かった。 あの光景を見てから、裕幸はどうしても自分が長く生きられる気がしない。 「お前のことが書いてあるページだけ、折り目がついてた。何度も何度も読み返したんだろう。あいつ、俺たちが裕幸の報告してるときは、まるで気にしていないそぶりだったのに。お前が産まれた日のこと。話せるようになった言葉とか、初めて立って歩いた日の日付。野菜が嫌いで菜奈が苦労してる、とか、最近自転車にハマってるんだとか。入学した日のこと。絵画コンクールで入賞したこと。サッカーの試合で捻挫して悔しい思いをしたこと。話した俺ですら忘れていたようなことも、逐一全部書いてあって……」 父はこらえ切れず、うつむいた。涙が一筋、頬を伝い落ちるのが見えた。
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