第11章

14/16

1032人が本棚に入れています
本棚に追加
/132ページ
「全部あいつのやさしさだったんだ。それなのに俺たちは、久我が生きてる間、お前を会わせてやらなかった。あいつのやさしい嘘を真に受けて。会う機会はいくらでもあったはずなのに。………もう会えないんだ。ごめんな」 父は痛みを耐えるような顔で、目を閉じた。 いや、比喩ではなく、実際に痛みを感じているのかもしれない。きっと父が抱える傷は、まだ癒えてはいない。 裕幸が事あるごとに負い目を感じていたように、父も悔やみ続けたのだろう。 丸まった背中は父が今でも後悔しているのだと、ありありと伝えてくる。 「久我が自分の存在を消そうとしたのは、お前に普通の人生を歩んで欲しかったからだ。一度も会えないままでも、それでもお前はあいつの希望だった」 全部、自分ひとりで背負っているような気になっていた。 己の出自のやるせなさも、運命の不条理さも、裕幸ひとりが堪えればいいのだと。 育ててくれた父も、血を分けたひとも、ちゃんと裕幸を守ろうとしてくれていたのに。 泣いている父を直視出来ず目線を逸らした先には、闇を映す窓ガラスがあった。雨粒が繰り返しぶつかっては落ちていくさまをぼんやりと眺めて呟く。 「そのひとに、会ったこと、ある。正確には見ただけだけど」 病みやつれたあの男のことを、これまでなるべく思い出さないようにしてきた。傍に暮らす父と母のことは気遣ってきたけど、あのひとがどんな気持ちで自分を捨てたのか、深く考えないようにしていた。 病院で一度見かけただけの男の顔を瞼の裏に描いて、想像してみる。 あの寂しい白い部屋で、あのひとは何を思っただろう。 思うように動かぬからだは、慢性的な痛みやだるさに苛まれ、長い入院生活の間に、見舞いにくるひとも徐々に減っていく。 ゆっくりと少しずつこの世界から零れ落ちていくのは、どれだけ孤独だっただろう。 父が言うように、裕幸の存在はあのひとの救いに成り得たのだろうか。答えを聞く機会は永遠に失われてしまった。もう、全ては想像でしかない。 「どうして…」 「私が一度、裕幸を病院へ連れて行こうとしたことがあるの」 話し声は廊下まで聞こえていたのだろう。がちゃり、とドアを開けて母が入ってきた。 ごく落ち着いた顔をしているけれど、よく見ると目元が赤い。 母は、昔から裕幸の前で極力弱いところを見せないようにしている。
/132ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1032人が本棚に入れています
本棚に追加