第6章

10/18
前へ
/132ページ
次へ
まだ小学生の裕幸は、知らない女性に話しかけられることなど滅多にない。驚いて、咄嗟に知っている番号を伝えたら、丸い眼鏡をかけた女性は指で方向を示しながら小さな地図を手渡してきた。 「療養病棟ね。ここから真っ直ぐ行って突き当たりを曲がればすぐにエレベーターがあるから、それに乗ればすぐよ」 「ありがとうございます」 本当はとっくに後を追う気持ちなんてなくなっていたのだが、話の流れで向かうことになってしまった。 慣れない総合病院は思っていた以上にひとが多く、ボリュームを押さえたひそひそ声が妙に居心地悪い。すぐにでも帰りたくなったが、入り口付近で立ったまま見送ってくれるボランティアスタッフの手前、引き返すわけにもいかない。 やたらと広い通路を歩きながら、珍しく一緒に来ないか、と誘ってきた母を思い出す。 そういえば、何度も母の見舞いに付いてきたのに、一度も母の友人を見たことはない。 どうして今日に限ってあんなことを言い出したのか、ほんの微かな違和感が蘇る。 たまには自分も顔を出してみようか、などと気まぐれを起こしたのはそのためだった。 ナースステーションで教えられた病室は、今思い返すと個室だった。 部屋番号を確認しつつ扉の前に立ち、一応ノックをしようとこぶしを固めかけたところで、ドアが細く開いていることに気づいた。話し声は聞こえない。ひょっとしたら母親の見舞い相手は寝ているのかもしれない。 起こさないように、そっと扉を開けて、中を覗き込んだ。 そこに見えたのは、幾重にも管を巻きつけられ、横たわる薄いシルエットの男と、その枕元でタオルを畳み直している母親。 男の顔は、物々しい機械に遮られ、よく見えない。 母親はぽつりぽつりと話しかけているが、男の声は聞こえない。 多分、このひとは、もう長くない。 何も知らない裕幸にすら、そう思わせるくらい、その部屋には濃厚な死の気配があった。 普段生活している世界とはかけ離れた、寂寞とした空間にぞっとする。 ふいに男が咳をし始め、母親が男の背に手を添えて上体を起こす。 そうして現れた男の痩せこけた顔をみて、一目で理解した。 どうして、母が何年もずっとこの男のところへ通っているのか。どうして今日に限って、裕幸を病室へ連れて行こうとしたのか。 その男は、自分と瓜二つの顔をしていた。
/132ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1041人が本棚に入れています
本棚に追加