第6章

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この病室で入院している顔色の悪いこの男は、おそらく裕幸の本当の父親だ。 その場で叫び出さなかったのは奇跡だと思う。 全身から血の気がひいたのが自分でも分かった。足元の地面がなくなり、どこまでも下へしたへ落ちていくような感覚。 眩暈がしたが必死にこらえ、とにかく音を立てないように扉から離れる。 いっそ、気を失ってしまえたらよかった。 涙がこぼれぬように出来るだけ目を見開いたまま、もつれる足でもと来た道を戻る。院内の廊下にはいたるところに人が居て、喉元までこみ上げてきた嗚咽をこらえるのは苦しかった。 広いロビーを通り抜け、やっと病院から出た途端、焼け付くような日差しと熱気が襲ってきた。 頭の中は割れ鐘のようにガンガンといくつもの疑問が渦巻く。 まず最初に思い浮かんだのは、今まで育ててくれた父親の顔だった。やさしいあのひとは、このことを知っているのだろうか。 知らないのかもしれない。そうだとすると、母は父を裏切っていることになる。 知っているのかもしれない。もしそうだとすると…その先を考えるのは、とても怖い。 知らないでいて欲しいと強く願った。今まで家族として過ごしてきた時間の全てが、嘘だったとは思いたくない。 あの痩せこけた男は、裕幸という存在を知っているのだろうか。 不実を隠しようもないくらいそっくりなこどもが、この世に存在していることを。 知っていて、ずっと放置してきたのだろうか。 知らないのなら、何のために、どうして、 「どうしてオレを産んだの、母さん………」 口からこぼれた独白は小さく、誰にも届かない。 母は、まだ裕幸が気づいてしまったということを知らない。 それは、裕幸にとって希望であり、絶望でもあった。 裕幸が口にしない限り、これまで通りごく普通の家族ごっこが続けられる。でも、裕幸が本当のことを知ってしまったのだと気づかれたら、どうなってしまうのだろう。 今日も、この後母が迎えに来る。そして、もし裕幸の様子がいつもと違えば、心配して理由を尋ねてくるだろう。 “どうしたの?大丈夫?” その問いに、自分は笑ってなんでもないよ、と答えなければならない。本当は罵って詰りたくて仕方ないけれど、これまで母が守ってきたささやかで平凡なこの家庭を壊したくないのなら、気のせいだと言い張るしかない。
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