第10章

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訪れるたびにきちんと出迎えてくださる、理知的で真面目そうな印象の裕幸の母を思い出す。 家族のぬくもりがそこここに満ちたあの家でこれ以上暮らすのは、裕幸にとってはいっそ酷だろう。 「……………」 きっと裕幸は、両親に自分の嗜好を打ち明けるなんて、考えたこともなかったのだろう。裕幸にとって家族は唯一にして最大の弱点だ。彼らを困らせたりしないよう、両親の前で長い間ひたすらいい子を演じてきたのだろうことは、想像に難くない。 裕幸は固く口元を引き締めて考え込んでいる。普段はそこそこ賑やかなロビーは冴え冴えと冷え込み、海の底のように静かだった。 「それでもルームシェアしたい?」 「したいです」 問い掛けると間髪入れず答えられ、苦笑する。即答すること自体、まだ亮が裕幸から本当の信頼を得ていないという証拠かもしれない。 声を掛けてみたものの、亮は多分、すぐに裕幸と同居することにはならないだろうと踏んでいる。でも、いざとなれば行く場所があるのだと思うことは、きっと彼の心に僅かでも余裕を持たせてくれるはず。 「急いで結論を出す必要はないよ。まだ時間はあるから、ゆっくり考えたらいい。ルームシェアしなくても、もう僕は逃げないから」 「…………」 「見回り、付き合ってくれてありがとう。でも、裕幸くんはそろそろ帰った方がいい。合格発表の日なんだから、きっとご家族のみんな、君の帰りを待っているよ」 時計を確認すれば、時刻はもう七時近かった。きっと裕幸の家族は、自慢の長男の凱旋を心待ちにしているはずだ。その時間は裕幸にとっては決して心安いものではないが、家族思いの裕幸には無下には出来ないはず。 「オレ、もっと亮さんといっしょに居たいよ」 案の定、裕幸は寂しそうな顔を見せるけど、大人しくかばんを持って従業員用の出入り口へ向かう。 エレベーターの脇を通り、狭い通路を抜ける間、裕幸は無言だった。相変わらずカーテンが下りたままの警備室を通り過ぎると、もう出口は目の前だ。 この後家に帰れば、家族から心のこもったもてなしを受け、またそれが彼を傷つけるだろうと思うと堪らなかった。 「裕幸くん」 出入り口まで後数メートル、というところで呼び止めた。振り返った裕幸に少し背伸びして触れるだけのキスをする。 「今まで本当にがんばったね。また連絡する」 一度笑いかけてから、扉を開いてやろうとしたときだった。 「っ、」
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