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「あの夜の満月の光が水面にたなびく光景は素晴らしかった。君はいつもあんなに美しいものを見ているんだね」
あの風景に感動してもらえるなら、もっとたくさんの瀬戸内の姿を櫻井に感じてもらいたい。そう思っているうちに、櫻井のマンスリーマンションへと着いてしまった。
「今日は本当に楽しかったよ」
櫻井はチャーター料金をカードで支払うと、にこやかに優弦に言った。
「おれも楽しかったです。これで海外からのお客様の案内が滞りなくできれば良いのですが」
「それは満点さ。彼は来月の十日から三日間の予定で来るそうだ。その期間は君を貸し切るからね」
はい、と返事をしてカードを櫻井に返す。彼はそれを受け取って財布に仕舞ったが、一向に助手席から降りる気配がなかった。優弦がどうしたのかと思った途端、左の太腿に櫻井の右手が這わされた。
ひく、と息を呑み、触られた太腿へと視線を向ける前に、櫻井の左手が延びてきて右頬を軽く這う。櫻井の顔が近づいて彼の行動の予測がついたとき、優弦は咄嗟に、「駄目です」と、強く拒否の言葉を口にしていた。
「どうして?」
近寄ろうとする櫻井に、優弦は顎を引いて制帽の下に視線を隠すと、
「車内は駄目です。その……、カメラが……」
櫻井は動きを止め、横目でフロントガラスを盗み見た。たしかにガラスの上部付近に小さなレンズがついている。ドライブレコーダーだ。きっと運行中の車内の様子も記録しているのだろう。
このまま押し倒さなくて良かった、と櫻井は思いながら、帽子のつばで顔を隠してしまった優弦に問いかけた。
「今日の仕事はさすがに終わりだよね?」
「いえ。今日はまだ続けます」
「そう。じゃあ、仕事が終わったら、うちに来て」
その申し出に優弦が思わず隠していた視線を上げてしまった。その視線を櫻井は捉えると、
――優弦。君と抱きあいたい。
声にせず、櫻井の唇の動きを拾った優弦は大きく目を開いた。笑いかける櫻井に、
「……でも、乗務が終わるのは明日の朝の四時で……」
戸惑いの言葉に櫻井は、
「いつまでも君が来るのを待っている」
と、囁くと優弦を置いて助手席から出ていった。
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