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 午前四時――。しんと静まり返ったマンションの外廊下で、優弦(ゆづる)はその部屋のドアを前にいまだに心を決められないでいた。  結局、あの別れ際の櫻井の囁きが耳から離れられず、四時の帰庫時間よりも二時間も早く本日の業務を切り上げた。普段はあまり早く帰ってくることのない優弦に、営業所にいた配車担当の社員から、体調が悪いのかと心配されたほどだ。  外廊下に吹きつける風は、まだ身を切るように冷たい。ぶるりと体が震えた。寒さからなのか、緊張なのか、それがわからないまま、優弦は意を決して目の前の小さなインターフォンのボタンを押した。  ドア越しのチャイムがやけに廊下に響いた。いつ、インターフォンから自分の名前を呼びかけられるかと身構えていると、予想に反してすぐにドアが開かれた。 「おつかれさま。来てくれたんだね。さあ、入って」  朝というにはずいぶん早いというのに、櫻井は涼やかな笑顔で優弦を迎えてくれた。軽く頷き、促されるままに室内へと入る。櫻井の脇を通り抜けたとき、揺れた空気の流れに乗って、爽やかな香りが優弦の鼻先に届いた。  背中で小さく鍵が締まる音がする。戸締りを終えた櫻井の手が優弦の肩に廻されると、そのまま両手が前へと延びてきて優弦の体を覆った。左耳の後ろに頬を寄せられ、髪に鼻を埋めた櫻井が、 「良い匂いだ。それに少し髪が濡れているね。もしかしてもう、シャワーを浴びてきた?」  笑った櫻井の吐息がうなじにかかる。彼に自分の浅ましい部分を見透かされたようで優弦は体を固くした。 「嬉しいよ」  ちゅっ、とそのままうなじに唇が這わされる。びくん、と大きく震えた優弦の肩を抱くと櫻井は、「おいで」と、耳元で囁いた。  前にも来たことがある部屋なのに、なぜかすべてが初めて眼に写るように思えた。小さく落とした灯りが照らす部屋の中に入ると、 「なにか飲む?」 「いえ……」  短く返事をしてダッフルコートを脱ごうとしたら、後ろから櫻井が手際よく助けてくれた。  どうしていいのか身の置き所に困って立ち尽くす。そんな優弦の手を取り、ベッドに腰かけた櫻井が「ここに座って」と、言った。優弦は一瞬、逡巡したが、言われた通りに少し間を開けて櫻井の隣に座った。
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