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――終わった。
たった三文字の簡潔な言葉が、脳裏を過ぎる。
走馬灯でも走るかと思ったが、そんな暇もない。先ほど以上にぎゅっと強く目を瞑り、身体をこわばらせ――衝撃が身を襲う瞬間を待つことしか出来ない。
しかし。
アンリの身を襲ったのは、獣の獰猛な漆黒の翼ではなく、不意に何かに抱えられ、宙を浮くような感覚だった。
「え…?」
思わず声が漏れたとも気付かないまま、アンリは目を開ける。
視界は先ほどまでとは大違いだった。
浮いたような感覚は実際浮いた拍子に感じたものらしく、アンリの身はグリフォンよりも随分高い、空中にいた。
荒ぶるグリフォンの姿が、驚き目を丸めるマギの姿が、自分が尻もちをついていたはずの場所が、眼下の遠くにある。
空を飛んでいるかのような身軽さはなく、風の強い力で空に向かっている気分だ。髪の毛が散々乱れて目元を覆い、視界が悪くなる。
身ひとつで浮いているわけではない。
そうとわかったのは、すぐ耳元で深みあるバリトンボイスが響いたからだった。
「しっかり捕まっていろよ」
そのとき、アンリは自分の身を包むようにしている人物がいること、そして彼がしっかりと己の腰を支えてくれていることに気が付いた。
――ルイード・マリウス・ベルクヴァイン…!?
目を見開き、自分を包む男の顔を見る。端正な男らしい顔立ちが思った以上にすぐそばにあって、アンリは動揺した。
その拍子に身じろいだせいか僅かにルイードがバランスを崩しかけて、眉を寄せる。
「しっかり捕まってろって言っただろ。俺の肩に手をまわせ」
「えっ、あ、うん…!?」
有無を言わせぬ声になんとなく従い、言われるがままルイードの肩に腕をまわした。細身な自分とはまったく違う、鍛えられた戦闘向けのガッシリとした身体を感じて、場違いにも軽く嫉妬してしまう。男なら誰しもこうなりたいものだが、あいにくアンリの身はトレーニングしてもあまりごつくはなってくれないのだ。
見当違いなことを考えているあいだに、アンリの体制の固定を確認したルイードは空中でくるりと舞うように半身を翻した。
とんでもないことを…と思いながらよくよく見ると、ルイードの両腕のうち、アンリを支える右手とは反対、左手はある木から垂れるように下がっている蔦を握っているのに気が付いた。
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