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季節は春。
ヴェルトラント皇国は社交シーズンの真っ最中で、今宵も数多の夜会が開かれていた。
社交界デビューを果たしたばかりのうら若き乙女、結婚相手を探す紳士淑女、噂話に花を咲かせる貴婦人に賭け事に興じる爵士たち。恋に愛に忙しく飛び回る着飾った貴族も、今夜ばかりは掠れて見えた。
広いダンスホールの真ん中に、淡い紫のシフォンドレスを纏った乙女と漆黒の騎士が一組。
まあ、なんて素敵なんでしょう。
見かけない制服だな、宮廷騎士ではないのか?
黒地に深紅の縁取りは特科警務隊ですよ。
おお、先の内乱で功績を成したあの部隊か!
その忠誠を受ける幸運なレディはどなたかしら?
美しい方ですわね……羨ましいわ。
麗しき貴婦人の差し出したその御手に、勇ましき騎士が口付けを落とし忠誠を誓う。ヴェルトラント皇国の騎士ならば誰もがこう思うことだろう。
ただ一人、その命を賭しても護りたいと思う愛しい乙女に、心からの神聖なる誓いを、と。
だが、実際にその忠誠を誓う身になってみて初めてわかることもあるのだ、と男は思った。
淡い金色の艶やかな髪を襟足の上でシニヨンに結い上げ、けぶるような長い睫毛に縁取られた紫の瞳を伏せる可憐な乙女の名前はシュイリュシュカ・ツム・トレヴィルヤン。
男が恋い焦がれ続けた乙女は今、男の誓いを受けてその身を震わせている。僅かに潤んだ宝石のような紫の瞳は男の心を大きく揺さぶった。
俺のものだ。
男は三十代半ばに差し掛かっていた。
鍛えられた筋肉で覆われた逞しい体躯、整えられた漆黒の短い髪、切れ長の銀灰色の瞳で乙女を真摯に熱く、そして余すところなく乙女の身体を睨めつける。その長い脚を窮屈そうに折り、しかしそれでも優雅に乙女の前に片膝をつく男の姿は完璧な騎士そのもの。
しかし、この完璧な騎士が見た目ほど完璧でも優雅でもないことを乙女は、そして男自身は知っている。勇ましいとはいささか可愛らしい表現であり、事実この男は勇敢というよりも、勇猛……いや獰猛と言った方が相応しい存在であった。
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