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「あのう…すみません。」
振り返ると、そこには丸眼鏡に山高帽、仕立ての良いスーツに、よく磨かれたピカピカの革靴を身に付けた身形のいい男が立っていた。もちろん、初めて見る顔だ。
これほどしっかりした様子でありながら、どこか気持ちが悪いのは、男のあまりにも若い肌と細い体のせいだろう。
私だって、つい今朝までは社長だったのだ。目の前の品物がこんな若造に買えるわけがない逸品だということくらいわかる。
一番気に入らないのは、こいつが抱き抱えているトランクだ。なにを入れているのか、やたら大きい。
革ではあるようだがボロボロで、決していい物ではない。あれ一つで全て台無しだ。
だから嫌なんだ!物の価値もわからないくせにあんな格好をして…きっと金持ちの親にでも買わせたんだろう。まったく腹が立つ男だ、これだから最近の…
「あのう…ワタシの声、聞こえてます?」
神経を逆撫でするような声色と口調に考えを遮られ、カッとすると同時に我に返ると、私は思わず息を呑んだ。
さっきまで車も通せるほどあった間合いを一瞬で詰められ、男が私の懐でニヤリと笑っているのだから。
「なっ…なんだね君は!」
「ああ、よかった。ワタシの声も姿もわかるみたいで。」
やっと声を発した私に、男は心底ほっとしたように息を吐いた。
「どっちも手遅れじゃあ、商売になりませんからねえ。」
そんな言葉が付け加えられたことは、男が体を離してくれたという安堵感に掻き消された。
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