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(1)夜護洲古書
その小さな古本屋は、一見、古本屋とは思えない店構えをしていた。入り口近くに格安の文庫や漫画本が並べてあるワゴンなどはなかったし、道路に面している菱形の窓は濃い菫色をしていて、中の様子がまったく見えないようになっていた。
それでも、何とか古本屋だと恭司がわかったのは、店の名前が〝夜護洲古書〟で(しかし、この店名はどう読むのか、恭司にはさっぱりわからなかった)、開け放たれたままの入り口から、ずらりと並ぶ古書の背表紙が見えたからだった。
たまたま、その店の前にバス停があった。乗りたいバスが来るまでまだ三十分以上待たなければならなかったこともあり、それまでの時間潰しにと、特に何も考えずに店内に足を踏み入れた。
入ってみると、店の中は案外広く感じた。書棚以外の場所に本を置いていなかったせいもあるかもしれない。外から覗いて想像していたとおり、娯楽本らしきものは見当たらず、そのほとんどが学術書のような洋書ばかりだった。店の奥にはカウンターがあったが店主の姿はない。客も恭司以外いないようだ。
こんなマニアックな店では経営も大変だろう。他人事ながら気の毒に思いつつ、恭司は自分でもわかりそうな本を探して店の中を歩き回った。何しろまだ時間は三十分もある。やがて、店のいちばん奥まで来たところで恭司は立ち止まった。いないと思っていた人がいたのだ。
恭司と同じ大学生らしい、眼鏡をかけた男だった。背丈も同じくらいでひどく痩せている。書棚の一角をじっと見つめ、何か悩んでいる様子だった。
自分以外に客がいたことにも驚いたが、その男が何を見ているのかにも興味を引かれた。恭司はそっと男の後ろに回り、その書棚を覗いてみた。男はよほど集中しているのか、恭司の存在に気づかない。
真っ先に目についたのは、黒い背表紙に五芒星の金の箔押しがあるだけの、見るからに怪しげな本だった。男の見ている本がこの本であるという確証はまったくなかったが、恭司がいちばん注意を引かれたのがその本だった。少し中を見てみたいと思い、男の横からその本に手を伸ばした。と、そこで男は自分のそばに恭司がいることを知ったようだ。跳び上がるようにして恭司から離れた。
「あ、すいません。ちょっと見たかったもんで……」
正直、男の動揺ぶりに恭司のほうが驚いた。幽霊に会ったような顔というのはこういう顔のことをいうのかもしれない。男の顔色は蒼白だった。恭司は不審に思いながらも、例の黒い本の背表紙に指をかけた。
「あ……」
男が悲鳴のような声を上げた。恭司は指を止めて男を見返した。
「この本、買おうと思ってた?」
それなら恭司はすぐに引き下がるつもりだった。もともとこの本にさほど興味があったわけでもない。しかし、男は肯定も否定もしなかった。ひどく怯えた様子で恭司を窺うように見ている。
そんなに自分は怖い顔をしているかと恭司は内心憤慨した。これでも容姿にはそれなりに自信はあるのだ。
十五歳離れた恭司の兄――この眼鏡の男を十五年分老けさせたらよく似ているかもしれない――は、そんな弟を心配し、自分である程度身を守れるようにと、幼い恭司を近所の空手道場へと通わせた。兄は正しかった。そこの道場主に悪戯されそうになったとき、逃げる役には立った(兄は泣いて恭司に謝ったが)。
「もしかして……人間か?」
男がようやく口を開いたのは、恭司が本から指を離した後のことだった。
「自分ではそのつもりだったけど、そう見えない?」
男はあわてて首を横に振った。
「いや……その、綺麗すぎたから、てっきり――」
てっきりの後、男は何事かを口の中で呟いたが、それは恭司には聞きとれなかった。
「ま、そんなことはどうでもいいや。で、この本。いったい何の本なんだ?」
男は意表を突かれたように恭司を見た。
「知ってて取ろうとしたんじゃないのか?」
「いや、全然? ぱっと見て目立ってたから、ちょっと覗こうとしただけ」
「じゃあ……本当に、たまたまここに入っただけなのか?」
「そうだよ。たまたまバスを待つ時間潰しに入っただけ。それよりこの本、有名な本なのか?」
男は呆れたようなほっとしたような、不思議な笑みを漏らした。まだかすかに恐怖の名残は貼りついていたが。
「一部ではすごく有名だよ。何しろ、この世にはありえない本だ」
「ふうん。そりゃすごいや」
作家志望の兄の影響で本を読むのは好きだが、希覯書の類には関心のない恭司はおざなりにそう言った。
「じゃあ、さっさと買ったら? そんなんだったら俺はいいよ。人のものを横からかっさらう趣味はない」
男は眼鏡の奥の細い目を見張った。恭司がこんなことを言うとは思わなかったようだ。
「だったら、どうしてさっき、取ろうとしたんだ?」
「言ったろ。たまたま目についただけだ。でも、もういい。欲しいんなら、あんたが買えばいい」
男は首を横に振った。ゆっくりと、自分に言い聞かせるように。
「まだ、誰のものでもない。だから、迷ってたんだ。これを手に入れたら――もう、戻れない」
「そんなにヤバい本なのか?」
そう聞かされると逆に興味が湧いてくる。恭司は男のほうに身を乗り出した。
「今、立ち読みするだけでもヤバい?」
「それは……」
「どっちだよ?」
軽く恭司が睨むと、男は激しくたじろいだ。
「それは俺にも……でも、君は見たいんだろ?」
ためらいながらも男は例の本に手を伸ばした。その本はいちばん取りやすい高さの棚にある。男は大きく唾を飲みこんでからその背表紙に指をかけ、ついに書棚から引き出した。
大判の古びた本だった。黒い革張りの表紙にも、背表紙と同様、金の五芒星があるだけで、その本のタイトルらしき文字はまったくない。男は恭司を窺うように見てから、震える指で本の表紙を開いた。が。
(白紙?)
一目見て恭司はあっけにとられた。男もそう思ったようだ。恭司と顔を見合わせ、あわてて他のページも繰ったが、どれも文字一つもない、まったくの白紙だった。
「これが本なら、確かにこの世にはありえないな」
男と共に一枚一枚チェックして、すべて白紙だということを再確認した恭司は淡々と呟いた。
「こんなはずは……!」
男はあせってもう一度本をめくったが、いくら見返してみても白紙の状態は変わらなかった。
「いやー、珍しいもん見せてもらった。そろそろバスも来そうだし、俺、行くわ」
バスの通過予定時刻が迫っていることを自分の腕時計で確認した恭司は、あっさりそう言ってその場を離れようとした。
「あ――」
男は恭司を目で追った。それに気づいた恭司は訝しく思って首をかしげた。
「何? 別に俺に用はないだろ?」
「そ、そうだけど……」
「邪魔して悪かった。ゆっくり悩んでいってくれ」
店主が聞いたら気を悪くしそうなことを恭司は言い、今度こそ男に背を向けて店の外へ出た。男はもう恭司を呼び止めようとはしなかった。
バスは珍しく予定時刻どおりに来た。あいにく混んでいて座席には座れなそうだ。整理券を手にとって適当な吊り輪につかまった恭司は、最後にもう一度、あの古本屋を見下ろした。
店の入り口から、誰かが手を伸ばしていた。
恭司のほうに向かって、助けを求めるように突き出している。
ちょうど通行人の陰になって何者かはわからなかった。だが、わずかに見えるその袖口は、あの男が着ていた服と同じもののような気がした。
もっとよく見ようと窓に顔を近づけた、そのときバスが走り出した。バス停もあの店もあっというまに後ろに遠ざかっていく。
(まさか……な)
たぶん、気のせいだ。
あれが、あの男の手だったなんて。
手は見えたが、体は見えなかったなんて。
(結局、何の本かは訊けなかったな)
あの男の様子からして、まともな本ではなさそうだったが。それとも、あれは一見白紙に見えるが、何らかの方法を使えば読めるものだったのか。
(ま、俺には関係ないか)
そう思って前方の料金表に目をやったとき。
肩にかけていた黒いデイパックが急に重くなった。
誰かに引っ張られでもしているのかと思って見てみたが、誰にも何にも触れられてはいない。
その時点で何か嫌な予感はしていたのだ。しかし、このまま何も確かめないわけにもいかなかった。何しろ重い。恭司はデイパックを下ろして中を見た。
黒地に金の五芒星。
あの本が――あの男が手に持っていたはずのあの本が、デイパックの中に収まっていた。まるで最初からそこに入っていたかのように。
(んな馬鹿な)
こんなことはありえない。次のバス停で降りて、走ってあの古本屋に戻ろう。
恭司は降車ボタンを押そうとしたが、降車ボタンどころか、バス自体が存在していないことを知った。あれほどいた乗客も、バスを運転していた運転手も。
(そうか)
なぜ、もっと早くに気づかなかった。ここではありえないことなどありえない。なぜならここは――
(夢だ)
恭司は目を閉じた。目覚めれば終わる。終わるはず。だが、恭司は耳許でこんな声を聞いたような気がした。
――そうだ。だが、夢が永劫に続くなら、それが現実だ。
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