(2)死霊秘法

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(2)死霊秘法

「どうぞ。インスタントだけど」  コタツの前でどこか居心地悪そうにあぐらをかいている来訪者に――ちなみに、靴下の色も黒かった――恭司はインスタントコーヒーの入ったマグカップを差し出した。面倒なので問答無用でブラックだ。だが、一緒に持ってきた自分の分にはちゃっかり砂糖とミルクが大量に入れてある。甘いものは嫌いなくせに、どういうわけかコーヒーだけは甘くしないと飲めないのだ。我ながら不思議である。  先ほど長ったらしい名前を名乗った男は、自分の前にあるマグカップをしかつめらしい表情で凝視していた。 「どうした? インスタントはやっぱり嫌か?」  と言われても、今この部屋にはインスタントのコーヒーしかないのだが。異国の男は軽く首を振って、黒い革手袋をはめた手をマグカップに伸ばした。 「いや……こんなものを出されたことがないので面食らっていた」 「俺も()()()に出したのはこれが初めてだよ。でも、いくら化け物だろうが、真夜中に突然押しかけてこようが、あんた、一応客だからね」  あからさまな嫌味に男は少しばかり眉をひそめたが、結局、何も言い返さずにコーヒーをすすった。 「それで? 日本のしがない大学生に何の用だ?」  カフェオレを飲みながら恭司が訊ねると、男はマグカップをコタツの天板の上に置いた。 「今、おまえはある古本屋で、一冊の本を手に入れたな?」 「正確には違うな」  真面目くさった顔で、恭司は人差指を左右に振った。 「一つ。それは夢の中での出来事だ。二つ。その本は俺が望んで手に入れたわけじゃない。勝手に誰かに押しつけられたんだ」 「そうか。しかし、いずれにしろその本は今おまえの手元にある」 「俺の話、聞いてなかったか? 夢の中でだって言っただろ」 「おまえこそ、確認したのか?」  そう言われて、恭司はコタツの横に放り出してあった黒いデイパックに手を伸ばし、自分のほうに引き寄せた。  かなり重い。  恭司は渋い顔になって、乱暴にデイパックを開けた。 「どうせなら、札束のほうがよかったな」  そうぼやく恭司の手の中には、あの金の五芒星の黒い本があった。念のため中身も見てみたが、夢の中で見たとおり、白紙のままだった。 「で、この本が何? 返せって言うんなら今すぐ返すぜ。ほら」  恭司は黒い本をそのまま男に投げ渡した。 「なぜだ?」  本を撫でながら、不可解そうに男。 「もともと俺のものでも何でもないからさ。それに、そんな白紙の本なんて、持ってたってしょうがない」 「我は返してもらいにきたわけではないぞ、沼田恭司。これはもうおまえのものだ。何があっても返品は受けつけぬ」  男は初めて少し笑った。片手で黒い本を掲げ、恭司の前へ突き出す。 「これは、本であると同時に、鍵でもあるのだ」 「鍵?」 「そう、鍵だ。おまえにはこれが白紙に見えるのだな? 当然だ。これはおまえにもわかるように言うなら、まだカバーをかけた状態にあるのだよ。この本の名は――」  男は本の表紙を大きな手で一撫でした。  すると。  金の五芒星しかなかったはずの表紙には、古めかしい字体のアルファベットが浮かび上がっていた。 「『死霊秘法(ネクロノミコン)』」  思わずそう呟いてから、恭司は額に手をやった。 「おいおい……勘弁してくれよ。冗談だろ?」 「これでもか?」  男は本の中身をパラパラとめくってみせた。まったくの空白だった紙面は、文様のような細かい文字――明らかに日本語ではなかった――で埋めつくされていた。所々、魔方陣のような図版もある。 「何でそんなもの、夢の中で売ってるんだよ?」  驚いたというより呆れていた。男は少しだけ落胆したような顔をしてから音を立てて本を閉じた。 「夢の中だからだ。まあ、そんなことはどうでもいい。今、おまえがこれを持っている。それだけが我にとって重要だ」  畳の上に本を置き、恭司の前に滑らせて返す。 「さて。我とこの本の名を知っているということは、H・P・ラヴクラフトのことも知っているな?」 「知識としてはね。アメリカのホラー作家だろ。〈クトゥルー神話〉でごく一部だけに有名な。あんたもそのラヴクラフトに作られた神の一人じゃなかったのか? 〈這い寄る混沌〉ナイアーラトテップ」  恭司は意地悪く笑って、男――ナイアーラトテップの秀麗な顔を覗きこんだ。  近くで見ると恭司の瞳は薄い鳶色をしている。〈這い寄る混沌〉は恭司を一瞥してからマグカップに目を落とした。やはりインスタントはうまくなかったのか、最初に一口飲んでからまったく手をつけていない。  H・P・ラヴクラフト――ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは、一八九〇年八月二十日に生まれ、一九三七年三月十五日に死んだ、アメリカの怪奇幻想作家である。  生前は決して恵まれていたとはいえないこの男は、〈クトゥルー神話〉と呼ばれる架空の神話体系の創始者として名を残した。  その神話体系の基本設定はこうである。  ――人類発生以前の太古の昔、地球には〈クトゥルー〉、〈大いなる種族〉、〈古のもの〉などといった〈旧支配者〉が君臨していた。やがて彼らは地上から姿を消したが、滅びたわけでは断じてなく、邪悪な人間どもの力を借りるなどして、再び地球の支配者たらんと復活のときを窺っている……  この異様な神話世界は、ラヴクラフト存命中から数々の作家を魅了し、彼らによって〈クトゥルー神話〉は現在もなお増殖を続けている。しかし、少なくとも日本の場合、一般人にはほとんど知られていない。まさに、知る人ぞ知る、というのがこの〈クトゥルー神話〉でありラヴクラフトであった。『死霊秘法』というのも、ラヴクラフトが作り出した()()()魔道書の名前なのである。 「もっとも、あんたがこんな色男だとは知らなかったけどね。その姿もラヴクラフトが作ったのか? それとも、あんたの趣味?」  一方、恭司はいよいよにやにやして、〈這い寄る混沌〉をからかった。  〈大いなる使者〉とも呼ばれるこの蕃神(ばんしん)は、〈旧支配者〉の中で唯一自由に活動でき、外見も自在に変えられるという。これまで恭司の軽口を黙ってやりすごしてきたが、さすがに我慢しきれなかったのか、恭司から目をそらしたままぼそりと言った。 「口の減らない奴だ」 「何だよ。俺、ほめてるんだぜ? 少なくとも、のっぺらぼうで来られるよりはるかにましだ。……で? ラヴクラフトを知ってたら何だって言うんだ?」 「確かに、我らをこの世界に顕したのはラヴクラフトだ。だが、奴は我らを他人にも描かせることにより、故意に我らの姿を歪めさせた。そのため、我らは今でも満足に身動きがとれぬ。あまたの矛盾や混乱の糸が、ますます我らの身を縛る。さらに、ラヴクラフトの弟子のオーガスト・ダーレスが、我らを卑小な解釈にのっとって体系化しようとし、ただの怪物の類に貶めた。ラヴクラフトが描いた我々こそが真実であるが、今ではダーレスの〈クトゥルー神話〉がそれに成り代わりつつある。しかし、それはしょせんダーレスの虚構にしかすぎぬ。我らが選んだのはラヴクラフト一人であって、奴など選んではおらぬのだからな」  急に饒舌になった訪問者の話を、恭司はカフェオレをすすりつつ聴いていたが。 「なるほどね。で、今度は俺に第二のラヴクラフトになれとでも?」 「そうだ」 「何でまた? どうして俺? 確かに学部は人文だが、俺は読む専門で、小説書いたことなんか一度もねえよ。それより、有名なプロの作家とっつかまえて書かせたほうが、メジャーになれる確率はずっと高いぜ? あんたたちにとっては、そのほうがいいんだろ?」 「……マイナーなほうがいいのよ。こういうものはな」 「そうかな。マイナーだったから、ダーレスが頑張っちゃって、結局ああなっちゃったんじゃないの?」  これには一理あると思ったのか、それともまったく話にならないと思ったのか、〈這い寄る混沌〉は厳かに別のことを言った。 「もちろん、応じてくれるな?」  にやっと恭司は笑った。 「嫌だと言ったら?」 「何?」 「そりゃ嫌だよ。つーか、無理。俺には小説なんて書けない。このとおり、これは返すから、どこかよそを当たってくれ」  正体を現した黒い本――『死霊秘法』を、恭司は再び〈這い寄る混沌〉のほうへ突き返した。蕃神はそれを見下ろしてから、冷ややかに恭司を睨んだ。 「おまえは本当に、我が誰かわかっているのか?」 「わかってるよ。あんた、自分で名乗っただろうが。でも、一応参考までに訊いとこう。もし俺が断ったら、いったいどうする気だ?」 「そうだな。いろいろ手はあるが……」  このとき、それまで表情の乏しかった〈這い寄る混沌〉の顔に、初めてはっきりとした笑みが浮かんだ。きわめて残虐で、そのくせ魅惑的な。 「たとえば、ラヴクラフトのように、頻繁に悪夢を見せて書かざるを得ない状況に追いこむとか……もっと簡単に、おまえを殺すとか」  だが、恭司はまったく動じなかった。 「なら、殺してくれよ。今すぐに」  〈這い寄る混沌〉はあっけにとられて恭司を見た。 「何だと?」 「何もしないで死ねるんなら、これほど楽なことはない。殺せ。そして、すぐにその本を持って他を当たれ。お互い、時間の無駄だからな」 「なぜだ?」  顔を歪めて蕃神は呻く。 「おまえ……自殺志願者か?」 「そんなんだったら、わざわざあんたに頼まないよ」 「では、なぜ死にたがる?」 「いつかは死ななきゃならないからさ。死んですべてが終わるなら、生きていたって無意味だろ?」  〈這い寄る混沌〉は何か言いかけたが、結局、黙りこんだ。 「で、どうなんだ? 殺すか。あきらめるか」 「……どちらも、できぬ」  自分の膝を握りしめながら、蕃神は答えた。 「おまえは、選ばれたのだ。どうしても小説は書けないというのなら、それでもよい。要は我らを動けるようにしてくれればよいのだ」 「どうやって?」 「それを考えるのがおまえの役目だ」 「んな、勝手な」  思わず恭司は声を上げたが、〈這い寄る混沌〉は平然と無視をした。 「ひでえな、あんた。断って殺されることさえ許してくれないのか。じゃあ、逆に。引き受けると俺にはどんなメリットがあるんだ?」  今度は蕃神は耳を貸した。 「メリット?」 「シャンプーじゃないよ。利得。見返り。あんた、俺にただ働きさせるわけ? いくら何でも、それじゃ全然やる気にならないよ。何かしらメリットがなきゃ」 「ならば、おまえはいったい何が欲しい? おまえの望むことなら、何でも叶えてやるぞ」 「何でも?」 「ああ――何でも」  奇妙な熱っぽさがあった。まるで、見返りという意味でなくとも、おまえのためなら何でもしてやるとでもいうように。 「言ったな。じゃあ、叶えてくれ」  軽く恭司は笑った。 「安楽死だ」  何を言われたかわからず、〈這い寄る混沌〉は一拍おいてから呟いた。 「何?」 「あ、ん、ら、く、し。具体的には眠ったまま死ぬことだな。そして、もし転生というものがあるんなら、俺は二度とこの世に生まれてきたくない。まあ、そこまではあんたに頼まないけど、用が済んだら、俺を眠ったまま死なせてくれ。俺の望みはそれだけだ」 「おまえは……報酬にまで死を求めるのか?」  〈這い寄る混沌〉の声には、なぜか切なげな響きがあった。 「ただの〝死〟じゃない。〝安楽死〟だ。あんた、さっき俺に言ったよな? 俺の望むことなら何でも叶えてやるって。あの言葉は嘘だったのか?」  蕃神は悔しげに顔を歪めたが。 「わかった。必ず叶える。だが、おまえが約束を果たさぬうちは、何があっても死なせはしないからな」 「はいはい。じゃあ、契約成立だな。契約書でも書こうか?」 「我は悪魔ではないぞ」  何がそれほど気に障ったのか、〈這い寄る混沌〉はむっとして恭司を見やる。 「まずは、我がおまえを〈旧支配者〉の許ヘと案内する。おまえはその見聞を元に……どうした?」  急に恭司が笑い出したのに気がついて、蕃神は不安そうな表情を作った。 「いや、何……まるでダンテの『神曲』みたいだなと思ってさ。さしずめ、あんたはダンテを地獄へと導くウェルギリウスだな」 「なるほど、違いない」  〈這い寄る混沌〉にもそれだけの知識はあったのか、合点がいったように微笑んだ。実は『ファウスト』のメフィストフェレスみたいだとも言いたかったのだが、それは言わなくて正解だったかもしれない。あれは悪魔だ。 「じゃあ、今からさっそく地獄めぐりの旅とあいなるのかな、ウェルギリウス先生?」 「いや、また改めて来る。我にも都合というものがある」 「俺にも、都合というものがあるんですがね、先生」  ふてくされて恭司が言うと、蕃神は気まずそうに顔をしかめたが、黙殺して立ち上がった。 「言い忘れていたが」  〈這い寄る混沌〉は恭司を見下ろした。蛍光灯にまともに照らし出された蕃神の顔は、やはり整いすぎるほど整っていた。 「このことは他言無用。そのことゆめゆめ忘れるな」 「はいはい。それはもう」  うるさそうに恭司はうなずいて、コタツに突っ伏した。 「頼まれたって言わないよ。頭おかしいと思われるだけだから」  意訳すれば他言しないと言っている。が、〈這い寄る混沌〉の眉間には深い縦皺が寄った。 「おまえがどこにいても迎えにいく」  そう言い残して、玄関のほうへと歩いていったのだが。 「あ、ちょっと待った!」  恭司が呼び止めると、それを待っていたかのように蕃神は振り返った。 「何だ?」 「これだよこれ。返すって言ったろ。持って帰れよ」  恭司は忌々しそうに『死霊秘法』を指さした。それを見た〈這い寄る混沌〉は、深い溜め息を吐いてから、再び恭司の前へと引き返してきた。 「それはおまえのものだと言っただろう」 「持ってても、洋書じゃ読めん。古本屋に売ってきてもいいのか?」 「それは困る」  少しあせったように呟くと、蕃神はしゃがみこみ、恭司の手から本を取り上げた。 「これは鍵でもあると言っただろう」  たしなめるようにそう言いながら、もう一度さきほどのように本を撫でる。すると、黒い本は今度は銀色の大きな鍵に姿を変えた。鍵の表面にはアラベスク模様に似た彫刻が隙間なく施されている。しかし、〈這い寄る混沌〉はそれをゆっくり観察する時間を恭司に与えなかった。 「なくされたり、売られたりしたら困るからな。おまえが絶対に手放すことができないようにしておこう」  蕃神はにやりと笑うと――それは今夜恭司が見た中でいちばん嬉しそうな表情だった――いきなり恭司の左手をつかんで引っ張り、そこに銀の鍵を押しつけた。何をするのかと怒る間もなく、銀の鍵は小さくなって消えた。そして、〈這い寄る混沌〉が名残惜しそうに恭司から手を離したときには、恭司の左の薬指には銀の指輪がはまっていた。 「何だよ、これ!」  一声叫んで恭司はその指輪を外そうとしたが、ぴったりはまっていて少しも動かない。無理をしたら指ごともげてしまいそうだ。その表面には鍵と同じように細かい模様が彫りこまれていて、客観的に見ればきわめて美しい代物ではあったが、恭司に指輪をする趣味はない。 「見てのとおり指輪だ。これならなくさないし、売ることもできないだろう」  蕃神は妙に満足そうだった。 「だったら、何も左の薬指にすることないだろ! せめて中指にしろよ!」  何とか抜きとれないものかと足掻いていた恭司は〈這い寄る混沌〉の鼻先で怒鳴りつけたが、蕃神はそれをきれいに無視して玄関から出ていった。  それからも恭司はしつこく挑戦しつづけていたが、指の皮が剥け出してきたところでようやくあきらめて、目が覚めたときのようにコタツに横になった。  恭司は目を閉じた。蛍光灯の光が気にはなったが、立ち上がってまた紐を引っ張るのももう面倒だった。 (このまま、目が覚めなかったら楽なのに)  眠る前に必ず思うことを今夜も思い、恭司はコタツ布団で顔を隠した。
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