1 MSS

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 事務所から依頼人を送り出した後、預かった資料を持って隣の私室に戻ると、のんびりとした若い男の声が私を出迎えた。 「よう。やっと帰ったか」 「……俺はまだおまえを呼んでいないが」  口ではそう言ったものの、勝手に来そうな気はしていた。それはそれでありがたいのだが、この男は決して暇人ではない。 「今はどれくらいこっちにいられそうだ?」 「そうだなあ……」  事務所にしている隣室とは違い、もっぱら遮光カーテンが引かれているこの部屋は日中でも薄暗い。その部屋の片隅にある灰色のパーティションの陰から、相変わらず呑気な調子で男は答える。 「五分はいられると思うが……それだけあれば充分だろ。資料見せてくれ」  私は言われたとおり、男に資料を見せた。男は一瞥しただけですべてを完璧に記憶できる。私が何も言わなくても、すぐに作業にとりかかった。  私、渡辺(わたなべ)由貴(ゆき)は、この三階建て雑居ビルの三階で、人捜し限定の探偵業を営んでいる。事務所名はこの男の希望により「MSS」。本人いわく「マン・サーチャーズ」の略らしいが、この事務所名は不正確である。実際に人捜しをしているのは名目上所長で唯一の所員である私ではなく、今このパーティションの向こうで作業している男――吉野(よしの)拓己(たくみ)一人なのだから。  ただし、私たちが請け負っているのは、依頼人が捜している人間の居場所――時にはそれはもうこの世ではないこともある――を突き止めて、依頼人に報告することまでである。その先のこと――たとえば、その人間を依頼人の元に連れ戻すことなどは業務外だ。もちろん、そのことは事前に執拗に説明し、それが不満な依頼人にはよそに行ってもらっている。依頼人には依頼人の事情があるだろうが、私たちにも私たちのそれがあるのだ。 「見つかったぞ」  吉野が当たり前のことのようにそう告げたとき、私が彼に資料を見せてから一分も経っていなかった。 「一応、現住所と写真、プリントアウトしておく。こっちから接触しなければ、移動はしないと思うがな」  そう言ったが早いか、パーティションの外にある複合プリンタ――これも吉野の希望により、リースではなく私物――が動き出し、A4サイズのコピー用紙を何枚か吐き出す。それを手に取った私は、写真を一目見た瞬間、思わず「あちゃー」と声を上げた。 「そんな声を出すってことは、おまえも薄々想像はしてたってことか」  わずか一分で依頼を片づけた吉野が、笑いを含んだ声で言う。 「まあ、この仕事始めて四年目にもなればな。いくら俺でも想像はつくよ」  私は苦々しい思いで、水商売風の女の肩を抱いて歩いている男の写真を睨みつけた。  今回の依頼人は二十代後半のOLだった。もう三年以上つきあっていて、結婚の約束までしていた男が、一月ほど前、突然姿を消してしまったのだという。それだけなら何か事件に巻きこまれた可能性もあるが、男の携帯番号が使えなくなっていて、男が住んでいたアパートはもぬけの殻となっていたと聞かされれば、いくらしばしば吉野に鈍いと揶揄されている私でも察しはつく。さらに、男は定職を持たないフリーターで、依頼人にかなりの金額を借りており、依頼人に教えた実家の住所はまるででたらめだった。 「できれば、この依頼は受けたくなかったな……」  よくあるケースだが、だからといって慣れるわけでもない。むしろ、私がいちばん不快に思うそれである。結局、この男――世間一般からすれば、いわゆるイケメンということになるのだろうが――は、結婚をエサに依頼人から金を吸い上げつづけ、これ以上はごまかしきれないと悟るや、夜逃げのように去っていったのだ。おまけに、男が逃亡した先は、依頼人の住む市の隣の市だった。灯台下暗しと考えてそうしたのかもしれないが、私には依頼人を馬鹿にしているとしか思えない。 「でも、受けちまったものはしょうがないだろ。……今から依頼人呼び戻して報告して、さっさと終わりにしちまったらどうだ?」 「いや、いくら何でも早すぎるだろ。予定どおり、明後日連絡するよ」  プリントアウトされた書類を持ったまま、私は深い溜め息をついた。人捜しは吉野任せだから非常に楽だが、依頼人に調査結果を伝えるのは私にしかできないことだから非常に苦痛だ。それなら調査結果を依頼人に郵送してしまえと吉野は言うのだが、料金は前金・後金ともに現金でもらうことになっている。振込だと踏み倒される恐れがあるからだが、実は吉野は依頼人の口座から勝手に引き落とすこともできる。あとが面倒だから私がさせていないだけだ。 「なあ。依頼はこれだけか?」  明らかに物足りなそうに吉野が言った。この男にとっては人捜しなど暇つぶしにもならないお遊びだ。しかし、そのお遊びで満足しなければならないこともよくわかっている。依頼は増やそうと思えばいくらでも増やせるが、その分、私の精神的負担も増す。もともと私は人見知りな質なのだ。吉野とは違って。 「それだけだよ。……もう帰るか?」 「つれないことを言うなよ」  呆れたように吉野が笑う。彼に嘘は通じない。声音だけでも本音を見抜く。昔からそうだった。 「何のために超高速でサーチしたと思ってるんだ? まずは顔をよく見せてくれ。どれだけ皺が増えたかチェックしてやる」 「いや、いつも言ってるけど、そのチェックはいらないから」  吉野流の冗談だとわかってはいるが、今年で三十三歳になる私にとっては、はっきり言って笑えない。  さっきとは違う意味で嘆息すると、本当は依頼人には見せたくない書類をサイドテーブルの上に投げ、吉野のいるパーティションの向こうに回った。
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