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席を譲って
「あの…すみませんけど、子供に席を譲ってもらえませんか?」
帰宅途中の電車の中で突然そう声をかけられ、俺は戸惑いを隠せない顔で相手と車内を見た。
車内はガラガラどころか俺しかいない状態で、座りたければどこにでもどうぞお好きに。何なら横たわっても文句など言われることもない空っぷりだし、そもそも『子供に』と言っているにも関わらず、目の前にいるのは三十前後の女だけ。子供の姿などどこにもない。
「あの、席なら他にいくらでも…」
「子供がいるのに席を譲らない気? この人でなし!」
いきなり叫び出した女に困惑し、俺は無言で立ち上がった。その足で逃げるように隣の車両へ向かう。
頭のおかしい奴と出くわしてしまった。こういう時はこちらの損にならない限り、要求を聞き入れて退散するに限る。
早々に隣の車両へ移り、今の女が追いかけてこないかどうか、前の車両を覗いた瞬間、俺は自分の目を疑った。
ほんの数秒前までガラガラだった車内にごった返す程の乗客がいるのが見えたのだ。そして、さっきの女の前には座席に座る子供の姿も窺えた。
目をこすり、何度も隣の車両を見るが、やはりそこは人でごった返している。
俺が移動している間に、奥の車両から大量に人が移動してきたのか? でもそんな気配など感じなかった。
意を決し、俺は元いた車両へ続く扉を開けた。
そこにはさっきの女しかいなかった。
慌てて移動先の車両に引っ込み、それでも足りないと、俺は列車の端まで移動した。そして、目的駅で降りた後は一目散にホームを離れたので、最初の車両を見ることはもうなかった。
この日以来、俺はあの時乗った車両には乗らないようにしているし、幸いにも、あの女と再び出くわすこともないままでいる。
それにしても、あの人混みはいったい何だったのだろう。
理由を知りたい気持ちもなくはないけれど、見てはいけないものを二度と見たくない気持ちの方が強いし、何より、車内がガラガラの時から人混みが見えていたらしいあの奇妙な女ともう関わりたくないので、あれが何のかなど知らないままでいい。
席を譲って…完
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