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 佳人は炭を熾しながら、ずれた和帽子を被り直した。髪を伸ばし始めたのは、後ろで結んでしまえばこの帽子に頭がすっきり収まって邪魔にならないからだ。  ふと駅で髪を触られた時の感触を思い出し、うなじの辺りに小さな痺れが起こった。  背が高く、理知的な、深い目をした男の残像が目の裏に蘇る。それは思いがけず佳人に甘苦しい感覚をもたらした。また会えるのだと思うと、ふわふわと足元が浮くような心地がして戸惑う。  今日はいつもなら絶対にしないようなミスを幾つかやらかして善三に睨まれていた。普段感情というものをほとんど表に出さない佳人の異変に、善三はもちろん気付いているだろう。  だが仕事に厳しく妥協しない善三は、ミスをすれば容赦なく怒鳴りつける。  初めてその洗礼を受けたときは身体の芯から縮み上がったものだが、今は自分のぬるい根性を叩き直してくれるありがたい叱責だと受け止められるようになった。  強面だが、その懐が海のように深いことを佳人は知っている。  初めてこの店に皿洗いのアルバイトで雇われたとき、あまりに悲愴な顔をしていたのだろう、この岩のように厳めしい男は仕事をあがると、黙って手ずから賄を用意してくれた。  金目鯛のアラを使った汁物の、繊細かつ典雅なそのつゆの味は今でも忘れられない。佳人はいっぺんでこの花板のファンになった。  余計なことは一切訊かないが、黙って見守っていてくれるその距離感が心地よくて、佳人は持て余していた孤独を少しずつ癒していったのだと思う。
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